親鸞は自虐ネタ

親鸞がぶち破ったもの
の続きです。

法然と親鸞の浄土宗は、熱病のように広がっていきました。

そうなると、既存の仏教との軋轢が沸点に達します。

念仏の禁止
でも罰則規定があるわけではなく、なんとかやれていました。

でも、ある事件が勃発。
後鳥羽上皇に仕える二人の女官が、無断で法然のもとの二人の僧侶を宮廷に呼んで法会を行った。
後鳥羽上皇は激怒、二人の僧侶は死罪という厳しいもの。
法然は讃岐に、親鸞は佐渡に流罪になった。
元々、親鸞は結婚を公表したことで目を付けられていましたので。

奥さん玉日は、ついていくべきところですが、病弱だったので
とても佐渡へは行けそうにありません。

侍女、恵信尼(えしんに)を呼びました。

あの人の今後をお願いできないかしら。

恵信尼は、元々越後の出身です。
親鸞の二人目の奥さんになります。

一般的には、恵信尼の方が親鸞の奥さんとしては有名なようです。

僧にあらず、俗にあらず
流罪に際して親鸞は藤井善信という俗名を与えられた
僧侶って、出家で家を捨てる訳だから姓がない
僧が流罪の場合は、俗人扱いなんだけど、
正式に姓を与えられたという事は、例え赦免されたとしても、
強制的に還俗(げんぞく)させられたという事を意味する。

ちなみに、法然は、藤井元彦

しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆえに禿の字をもって姓となす

禿という字を姓にしちゃった。

坊主ですから当然禿げてます。
ハゲ連合会支部員としては嬉しい限りです。

いきなり、明日から私の事をハゲと呼んでちょうだいと言われてもね

分かった。じゃあこうしよう。
さらに禿の上に「愚」の字をたして「愚禿(ぐとく)」

直訳すると、アホなハゲ
良いですねとても。

「禿」という字は毛が無いという意味だけど、ハゲだけじゃなく
かむろ、と読むときは、まだちょんまげの結えない少年の意味だったり
吉原の場合は、少女のうちから修業するんだけど、その時は、禿(かむろ)と呼ばれます。

僧に対して使うときは、形だけの僧侶、剃髪しない僧侶といった意味です。

在家信者を対象にした新しい仏教の確立において
結婚しその事を公表して一歩進み
「非僧非俗」という考え方でまた一歩進んだことになります。

赦免後
1211年、赦免されます。

さあ、どうしようか
「非僧非俗」と宣言しちゃったもので、元のお寺に戻って僧になるわけにいかない。
かといって、非俗でもあるから、俗人の仕事につくわけにはいかない
家族もいます。

そして、その翌年、法然の訃報が舞い込んだ。
京都に戻っても、もう師はいないのか

考えた末、信濃(長野県)の善光寺に向かいました。
善光寺の本尊、絶対秘仏の阿弥陀如来は生身の弥陀と呼ばれて盛んに信仰されていました。
善光寺は、長期滞在型の信仰施設で、無一文の信者でも、ずっといることが出来ました。

親鸞一家は善光寺に2年ほど留まっています。

そして、いよいよ本格始動
法然の弟子ではなくて、親鸞としての「非僧非俗」という新しいスタイルの宗教活動が始まります。

活動の拠点としたのは関東。京都ではありません。
常陸国稲田郷(茨城県笠間市)です。

新しいスタイルですから、布教の仕方もちょっと違う
いっぱい弟子を取って広めていくというものではない。
弟子は一人もいない
全て、同行(どうぎょう)同朋(どうほう)
僕たち一緒だね

上から目線ではものを言わず
ともすれば下から目線

親鸞と言えば、悪人正機説
善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや

ここでいう悪人というのは、現代で使われている悪人ではなく、
「仏教における劣等生」というニュアンスに近い
いくら頑張っても、悟りなんて拓けそうにありません、というひと
じゃあ、頑張るのをやめて、念仏だけ唱えましょう
ここだけの話ですけど、なんで私が念仏って言っているかというと、
立派な修行をしようとして挫折したからなんですよ。

阿弥陀さんの気持ちになって考えてください
何とか頑張れば泳げそうな人と、今まさに溺れている人
どっち先に助けます?
ね。劣等生の方がラッキーでしょ
私なんて、すごいラッキー
任せれば良いんです。
他力本願と言います。

お笑いで例えると、自虐ネタ

私なんて娘の名前を何度言い間違えたか
この前なんて、セキセイインコのくうちゃんに向かって、「おかあさん」と呼び掛けちゃいました。

失礼!
これは、私の話でした。

「教行心証」というのをはじめとして、本もいっぱい書きます。
52歳の頃です。

京都へ
晩年になって、ようやく産まれ故郷、京都に戻ります。
法然の墓参りも未だでした

帰ってみると、浄土宗がえらいことになっていました。
法然も、親鸞も流罪で京都を離れていましたし
残った法然の弟子たちへも弾圧が激しかった。
壊滅的な状況。

亡き法然上人に恩返しせねば
浄土宗再興へかけずり回ります。

おかげで浄土宗も勢いを取り戻すことに。

自分の基盤、関東の仲間たちとは手紙で頻繁にやり取り。

ずっと不思議だなと思っていたんです。
何故、親鸞は浄土真宗を起こしたのか
浄土宗ではダメだったのか
袂をわかつような喧嘩をしたわけでもないし
より深めたというだけで、基本は変わらない。

分かりました。
親鸞は浄土真宗を起こしていません。
浄土宗の再興に頑張っただけ。

浄土真宗の誕生は、親鸞亡き後の事です。
浄土真宗は日本の仏教の最大勢力
そこまで押し上げた、天才が現れるのです。

シリーズの次回、浄土真宗というものをもう少し考えてみたいと思います。

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[大奥]9 家重→座敷牢に入れられた側室

大奥シリーズです。

9代家重になります。
家重は、持って産まれた障がいがあり、ほとんど言っていることが聞き取れません。
唯一分かるのが、大岡忠光

そんな家重も、性欲はちょっとちょっと、というくらいある

徳川将軍たるもの、お世継ぎを作るという使命があるので頑張らねば。

数々の奇行は伝えられていますが
おバカだったわけではないと思う。
将棋が滅法強かったし、特定の分野では、極端に記憶力が良かった。

正室
嫁探しは、並大抵の苦労ではなかったのですが
みんなの努力の甲斐あって、相手が見つかりました。
伏見宮邦永(くになが)親王の四女・比宮増子(なみのみやますこ)

姫は美しい
やっぱり言っていることは分からないので、
大岡忠光の通訳を介して。

増子がノイローゼになってしまいそうになるのを
みんなでサポート
隅田川に船を浮かべて気晴らしのパーティー

そんな甲斐あって、享保18(1733)年の春、ご懐妊とあいなります。
ところが、幸せムードもつかの間
9月12日、早産。新生児は死んでしまいました。
さらに、あとを追うように、10月3日、増子もこの世を去ります。

思えば、家重の母親、お須磨の方もそうでした。
極めて難産で、命がけで、家重を産み落とした。
家重には重大な障がいが残る事になります。
お須磨の方は帰らぬ人に。

自分は精一杯生きてきた。
お母さんの命と引き換え。
何としても生きなきゃいけない。
10歳のとき水痘(すいとう)を患ったが、翌月回復
18歳のとき疱瘡(ほうそう)を患うが危機を乗り越える
20歳のとき麻疹(はしか)を患うがこれも乗り越える

将軍でこれだけ大病を乗り越えた人は珍しい。
生きる事に一生懸命だった。

生きて欲しかった。
家重の意気消沈ぶりははた目で見ていても、痛々しい程だった。

ただ、好色癖はさらに悪化していく。

お幸の方
お幸の方は、従一位前権中納言・梅渓通条(うめたにみちえだ)の娘であり、
比宮増子が京から江戸入りした折、多くの付き添いのなかにいた侍女の一人

瑞々しい美貌とふくよかな姿態が際立っていた

良いんじゃないの?

増子と同時並行

増子が亡くなると
お幸の方は、何かというと家重のそばについて
まるで御台所のように振る舞うようになる

そして4年後の、元文2(1737)年
お幸は西の丸において無事に男児を出産する

これには、みんな驚いた。沸き立った。
特に吉宗の喜びようは尋常ではなかった。
正直、諦め感はあった。

竹千代、
家康の幼少の頃の名前と同じ名前をつけた。
後の家治(いえはる)、10代将軍である。

お幸は、お腹様
元々あつかましい性格が大幅に助長され、やりたい放題
将軍以外、押さえる者がいない事は分かっていますのでね

ところが、独壇場だったところにライバルが現れた。
お千瀬
性欲の対象ではなく、愛情をそそぐ相手。

そうなると、お幸も我慢がならない
廊下ですれ違いざまに平手打ち。

とうとう、家重が切れた。

「ええい、うるさい。お幸にはもう会いとうない。当分、一室のなかに留め置け」

もちろん、これも大岡忠光の通訳を介してです。

暴れるお幸は両側から押さえつけられ
大奥の中の一室に。
出れるのはおトイレに行くときだけ。
決まった食事以外はあらえられない座敷牢的扱い。
後にも先にも、次期将軍の母親なのに座敷牢に入れられたのは、お幸ひとり

延享2(1745)年、お千瀬も男児を見事出産。
後の重好、御三卿のひとつ清水家を立ち上げます。

実はここまで、全て、将軍家重ではなく、吉宗の時代の
次期将軍、若様時代のことになります。

そのすぐあと、吉宗は健康上の理由で引退
将軍の座を、家重に譲ります。

その時、いくらなんでも、将軍の跡継ぎの母親が座敷牢に入っているという訳にはいくまいと
吉宗のはからいで、お幸は解放されることになります。

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千住宿のあと半分

最近お出掛けに行ったんだけど、書きそびれたのを書きますね

以前、日光街道のひとつめの宿場、千住宿に行きました。
千住宿を感じて

その時、時間切れで半分しか行けなかったので、残り半分に行ってきました。

以前は北半分に行ったので、今度は南半分です。
一気に予定の一番南まで行ってから戻ってきましょう

一里塚と高札場


道を挟んで、一里塚と高札場があった。
一里塚は日光街道で、日本橋から数えて、二つ目
ひとつめは、浅草辺りです。
一里塚には、大体、榎(えのき)が植えられています。
なぜ榎かというと
大久保石見守が家康に、
一里塚には松を植えようと思うのですが、とお伺い
家康は、
余(他)の木にいたせ
それをえのきと聞き間違えて、榎になっちゃった。

高札場は、幕府からの伝達事項掲示板
江戸庶民は識字率85%でみんな字が読めるから
そんな、お堅い内容でも楽しみにしていて読む
ふむふむ、親孝行せいとな、今日からそうしよう。

問屋場(といやば)、貫目改所(かんめあらためしょ)
ちょっと大きめの宿場には、これがあります。
東海道をウォーキングしたとき、川崎宿にもありました。

宿場って、馬を何匹用意しておくようにと決められていて
日光街道の場合は、50匹
運ぶべき荷物があると、馬に乗せて次の宿場まで
バトンタッチしてあとよろしくね
伝馬制(てんませい)と言います。
一匹の馬に乗せる重量の上限は決まっている
超えると二つ分の料金がいるのでここ重要。
馬主としては、馬に無理させたくないので、争いのもとになる
不正をしていないかチェックするのが、貫目改所

理論的には途中で荷物の重さがそうそう変わらないはずなので
最初の、この千住宿で貫目改めをするとずいぶん先までない。

そうなるとどうなるか
賄賂の横行です。
袖の下をさっと出し、
もちっと軽いことにしてもらえんじゃろか

ここの説明書きにこんなふうに絵が書いてある

横の広いところに、線が引いてあるので、駐車場かと思いきや

近づいてみるとこんなプレート

さっきの説明版まで戻って、ああっこの線と一緒やん
結構感動しました。
まさにこの場所で、攻防があったのね
ウォーキングでその場にたつのは、こうして思いを巡らすというメリットがあります。

酒合戦
通りを隔てて向かいが、酒合戦の行われた場所。

なかなか楽しいイベントで、酒井胞一、大田南畝、亀田鵬斎、谷文晁なども審査員になった
当時の超一流の文化人です。

それより前に、川崎大師で団体戦の酒合戦が開催されたことがあるけど
こっちは個人戦。
7升5合を飲んだ人もいる

川崎大師の時、その様子を、水鳥記(すいちょうき)という題で知らせた文章が残っている。
水鳥とは、酒をへんとつくりに分けた洒落です。
千住では、大田南畝が後水鳥記(ごすいちょうき)を書いたのをはじめとし
出席した文化人がこれを題材に、作品を数多く残しています。

不動院

おそらく近くに芸州藩(広島)の下屋敷があったのかなと思うんですが
芸州藩の藩士たちが、戊辰戦争に行った供養塔があります。

包丁塚って何度かお寺で見たことがあるんだけど
包丁の供養ってどういうことかなと思っていた。
包丁じゃなかったんですね
調理した魚たちの供養。
命をいただくことに対して、ちゃんと供養している

森鴎外旧居跡
森鴎外が、お医者さんだった頃の病院の跡
なんだけど、その跡地にでっかいマンションを作ろうとしている
何だよ、と思うなかれ
とっても好感の持てる建設会社

囲いに、こういった説明の写真を書いてくれているだけでなく
悪いと思ったんでしょうね
千住宿の色んな説明をいっぱい乗せてくれている。
千住の全てのゆかりの地の中で一番、千住宿について詳しかった。
さながら、資料館のよう


金蔵院

さっきの不動院もそうなんだけど
千住宿にいた遊女達を手厚く弔っている

ここのご本尊は閻魔大王
文京区にこんにゃく閻魔というのがあるけど、ここは、そば閻魔
お蕎麦をお供えして願掛け
何故かというと、ここの閻魔大王は大のそば好き

千住宿で良いそばの汁の匂いが漂ってくるのに耐えきれず
娘に姿を変えて、そばを食べに行っちゃった。
あまりの美味しさが忘れられず
来る日も来る日も、娘に化けて。
ところが失敗したのが、あまりに美人に化けちゃったこと
どこの娘だと評判になり、つけられちゃった。

なんと金蔵院に入っていくではありませんか
お堂に入って、閻魔大王に変わるところまでバッチリ見られちゃった。

でも大丈夫。
心優しい住民たち。
それならそうと最初から言ってくれれば良かったのに、とお蕎麦をお供えするようになりました。

黙ってて、毎日美人に逢える方が良かった気もしますが。

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ

[天皇]2-10 崇神天皇が実在する最初の天皇

天皇シリーズです。

最初の頃の天皇は架空であり、特段のエピソードも少ないので
まとめた感じで行きますね

戦前の人は、ジンム スイゼイ アンネイ イトク と暗記していたようですね
私も次のコウショウ コウアンまでだけ暗記しています。

2.綏靖(すいぜい)天皇
神渟名川耳尊(かぬなかわなみみのみこと)、神武天皇の3人の腹違いの兄弟のうち、末っ子です。
すみません、本には和名のふりがなが(かんぬなかわなみみのみこと)とあったのですが
昔の日本語には「ん」の発音はないはずです。
音便であるのは分かるのですが、むしろそれは「渟(ぬ)」が担っているものと考え
勝手にかぬなかわなみみのみことに変えました。

長男は、性格が悪く、長男と、次男三男連合で争いになる
長男は、二人の弟を亡きものにしようとするが、弟たちも対抗
でも、次男は怖じ気づいて何もできず、結局三男が弓を取ります。

3.安寧(あんねい)天皇
4.懿徳(いとく)天皇
5.孝昭(こうしょう)天皇
6.孝安(こうあん)天皇
7.孝霊(こうれい)天皇
8.孝元(こうげん)天皇
9.開化(かいか)天皇
それぞれ全て、前の天皇の息子です。
ここまでは伝承上の天皇
古事記や日本書紀にも、誰の息子と書いてあるだけで、特にエピソードは書かれていません。

10.崇神(すじん)天皇
258 or 318年から
ようやく、実在する天皇です。
御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれています。
ちなみに、初代の神武天皇は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
一緒ですね
初めて国を治めるという意味です
ヤマト政権の実質的な創始者だったのではないかという説もあります。

崇神天皇は、北陸、東海、山陽、丹波の4つの地域に「四道将軍」と言われる幹部達を派遣し
大きく勢力を拡大。

疫病とか
ただ、崇神5年は、疫病が流行ったり、不作だったりと散々の年
調べると、大物主神(おおものぬしのみこと)をちゃんと祀っていなかったのが原因と判明

大物主(おおものぬし)?
大国主(おおくにぬし)じゃないの?

はい
一緒のような違うような

日本の神様って二面性を持っているんです。
和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)と言います。
和魂とは温和で優しい性格、荒魂は荒ぶる神と言われるような荒々しい性格
とても人間的ですね

ほとんどの神様は両面持っているんですけど
大国主神の場合は、荒魂の時に、名前自体変わっちゃう。

荒っぽいので悪さばっかりしていたんですが
ちゃんと祀ると、急に良い神様になっちゃいました。

崇神天皇の叔母さん(7代・孝霊天皇の娘)に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)という人がいます。
えっ、何て?もう一回言ってみて、と言われても二度と言えませんね。

この人、なかなかの大物です。
大物主神の妻となったくらいです。

結婚するときの約束で、
決して正体を見ないでね

ところが、とととの姫様、約束を破って覗いちゃう。
あらら、大物主さん、蛇だったのね

大物主さん大激怒
あんなに約束したのに。

三輪山に帰っちゃいます。

ああ、私はなんてことをしてしまったの

泣き崩れ、箸で秘所を突き刺して死んでしまいます。
その場所が、箸塚古墳
この大物の姫様、卑弥呼だったんじゃないかと

太古のロマンです。

善政
崇神天皇、色んな良いことをします。

人民の戸口調査を行い、産業を奨励
弭調(ゆはずのみつぎ)、手末調(たなすえのみつぎ)という税の仕組みを作り
国も豊かになります。
船がない海辺の民には船を提供したり
痩せた田んぼには、池や堀を掘った。

168歳まで生きて、崩御しました。

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