大奥シリーズです。
9代家重になります。
家重は、持って産まれた障がいがあり、ほとんど言っていることが聞き取れません。
唯一分かるのが、大岡忠光
そんな家重も、性欲はちょっとちょっと、というくらいある
徳川将軍たるもの、お世継ぎを作るという使命があるので頑張らねば。
数々の奇行は伝えられていますが
おバカだったわけではないと思う。
将棋が滅法強かったし、特定の分野では、極端に記憶力が良かった。
正室
嫁探しは、並大抵の苦労ではなかったのですが
みんなの努力の甲斐あって、相手が見つかりました。
伏見宮邦永(くになが)親王の四女・比宮増子(なみのみやますこ)
姫は美しい
やっぱり言っていることは分からないので、
大岡忠光の通訳を介して。
増子がノイローゼになってしまいそうになるのを
みんなでサポート
隅田川に船を浮かべて気晴らしのパーティー
そんな甲斐あって、享保18(1733)年の春、ご懐妊とあいなります。
ところが、幸せムードもつかの間
9月12日、早産。新生児は死んでしまいました。
さらに、あとを追うように、10月3日、増子もこの世を去ります。
思えば、家重の母親、お須磨の方もそうでした。
極めて難産で、命がけで、家重を産み落とした。
家重には重大な障がいが残る事になります。
お須磨の方は帰らぬ人に。
自分は精一杯生きてきた。
お母さんの命と引き換え。
何としても生きなきゃいけない。
10歳のとき水痘(すいとう)を患ったが、翌月回復
18歳のとき疱瘡(ほうそう)を患うが危機を乗り越える
20歳のとき麻疹(はしか)を患うがこれも乗り越える
将軍でこれだけ大病を乗り越えた人は珍しい。
生きる事に一生懸命だった。
生きて欲しかった。
家重の意気消沈ぶりははた目で見ていても、痛々しい程だった。
ただ、好色癖はさらに悪化していく。
お幸の方
お幸の方は、従一位前権中納言・梅渓通条(うめたにみちえだ)の娘であり、
比宮増子が京から江戸入りした折、多くの付き添いのなかにいた侍女の一人
瑞々しい美貌とふくよかな姿態が際立っていた
良いんじゃないの?
増子と同時並行
増子が亡くなると
お幸の方は、何かというと家重のそばについて
まるで御台所のように振る舞うようになる
そして4年後の、元文2(1737)年
お幸は西の丸において無事に男児を出産する
これには、みんな驚いた。沸き立った。
特に吉宗の喜びようは尋常ではなかった。
正直、諦め感はあった。
竹千代、
家康の幼少の頃の名前と同じ名前をつけた。
後の家治(いえはる)、10代将軍である。
お幸は、お腹様
元々あつかましい性格が大幅に助長され、やりたい放題
将軍以外、押さえる者がいない事は分かっていますのでね
ところが、独壇場だったところにライバルが現れた。
お千瀬
性欲の対象ではなく、愛情をそそぐ相手。
そうなると、お幸も我慢がならない
廊下ですれ違いざまに平手打ち。
とうとう、家重が切れた。
「ええい、うるさい。お幸にはもう会いとうない。当分、一室のなかに留め置け」
もちろん、これも大岡忠光の通訳を介してです。
暴れるお幸は両側から押さえつけられ
大奥の中の一室に。
出れるのはおトイレに行くときだけ。
決まった食事以外はあらえられない座敷牢的扱い。
後にも先にも、次期将軍の母親なのに座敷牢に入れられたのは、お幸ひとり
延享2(1745)年、お千瀬も男児を見事出産。
後の重好、御三卿のひとつ清水家を立ち上げます。
実はここまで、全て、将軍家重ではなく、吉宗の時代の
次期将軍、若様時代のことになります。
そのすぐあと、吉宗は健康上の理由で引退
将軍の座を、家重に譲ります。
その時、いくらなんでも、将軍の跡継ぎの母親が座敷牢に入っているという訳にはいくまいと
吉宗のはからいで、お幸は解放されることになります。