[てんてん] 右上あいてるよね

[てんてん] 日本の文字の始まり
[てんてん] 昔、日本語に濁音はあったのか
[てんてん] 濁音は積極的に避けられた
の続きです。
てんてん、シリーズは最終回

濁点
過去3回で、
1.昔の日本に濁音はあった
2.万葉仮名の時は、清音と濁音は違う文字として存在していた
3.平仮名と片仮名が作られる段階で、濁音に対する文字が作られず
 し も じ も同じ し で表記されるようになった
ということを明らかにしていきました。

いよいよ、濁点(てんてん[゛])です
いつ、誰が決めて、どのように広がっていったのか

中国語
そのためには、中国語の特徴から始める必要があります。

中国語は、意味を表す表意文字。
発音を表す、日本語の仮名だったりアルファベットは表音文字。
学校で習いました。

漢字を文字として「見る」場合にはとっても便利
すぐに意味するところが分かります。
ところが「聞く」事で理解するのが大変
例えば、かん 変換、ってパソコンで打ってみると、出るわ出るわ
熟語にしても、同音異議語がやたらに多い。

そのへん、中国人は心得ていて、アクセント(抑揚)が何種類かあり
発音とアクセントの組み合わせで区別する。

もっと厄介なのは同じ漢字でもアクセントが違うと違う意味になるものがたまにあること
「教」は平声の場合は教えること、という名詞になり
去声の場合は教える、という動詞になる

そのお勉強で、漢字の四隅にマークを付けながら教える

分かった?
右下に点がついていたら語尾を下げるのよ、って具合

日本でも漢字で書かれた中国の文書は
ちゃんとした中国語の発音で読めなきゃ、公務員試験に受かりませんでした。
お役人達は中国人の先生に教わりつつ、四隅に点を付けながら発音を覚えていきました。
声点(しょうてん)と言います。

菅原道真が遣唐使を廃止すると、漢字の発音も日本化していきます。
例えば、明治以降、英語が入ってきたときに、glassをガラス、dollarをドルと言った具合

それでも、声点が便利だったという記憶が残っています。
漢字の横っちょを便利に使い、中国語の発音で漢文とかを読むのではなく、日本語的に読む

レ点、一二点、オコト点、って感じ

だんだん近づいて来ましたね

四隅の便利さに目覚めたので、もっといろいろ使いたいね
発音が日本語化すると、複雑な抑揚はまあ良いじゃない、ってことになり
語尾が上がるか下がるかの二種類だけになっちゃう
上声と平声で、左側の上に点が付くのと、左側の下に点が付くもの

アクセントよりさあ、もっと切実なのがあるよねえ
清音と濁音を区別出来るようにしない?
右側あいてるよね
アクセントじゃないって明確に分かるように
点じゃなく、てんてん、を右上でどう?

誰が言い出したかは分かりません
自然な流れで少しずつ定着し
そのままの流れで、漢字につけるだけじゃなく、仮名にもつけちゃえ
濁点の誕生です。

ただ、とてもグッドアイデアだったのにいまいち定着しない
古くから、江戸時代まで文字と言えば筆でさらさらっと書く続けた文字
筆を一旦持ち上げる必要のあるてんてんは、面倒

ええい、面倒
このまま出しちゃえ、読めるっしょ
結局元のまま

濁点がないまま、本として出て
読む側が、不便と感じるなら、読むときに濁点を付けながら読みましょう
書く側と読む側の分業制。共同作業。

きっちりルールとして決まったのは、何と、明治になってから
外国から活字という技術が入ってきた。
活字になると逆に字を続け文字にすること自体難しい。
最初から、濁音の文字を用意しておいても大差ない

ようやく完全に定着いたしました。

[仮名]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]42 文武天皇。また、始まり物語

天皇シリーズ

文武(もんむ)天皇
697~707年

先代持統天皇の子の草壁皇子と、後の元明天皇の間に生まれたのが文武天皇
持統天皇は譲位します。
ただ、まだ幼かったので、持統天皇が太上天皇(だじょうてんのう)として政務を見ます。

この辺りの天皇は、ここから始まったんですよ、というのが目白押し
何と言っても一番は、律令制の始まり
天智天皇(中大兄皇子)の時に始まった法治国家
でも近江令 飛鳥浄御原令というように、令しかない。
政治の組織等の色んな仕組みを表したもの

文武天皇の時に、中国の律令制度に習い
律という刑罰も含めた形での初めて。
701年、なおいっそうの大宝律令です。

次に元号の始まりです。
最初の元号は大化の改新の時の大化
その後白雉(はくち)に変わるが、次に続かず、32年間、元号は置かれなかった。
斉明天皇、天智天皇の時には元号はなく
天武天皇の最後の方で、朱鳥(しゅちょう)という元号を設定したが
僅か6ヶ月でまた無くなっちゃった。

15年後に定められたのが大宝律令の大宝
それ以降は入れ替わりながら元号はずっと続くので
元号は大宝から始まったと言えるでしょう。

そして、一番重要なのは、藤原氏の政治の始まり。
とても長く続き、江戸時代に至っても藤原氏の摂関家は続き、徳川将軍は宮家か摂関家から正室を迎えます。
明治時代になっても影響力は持ち続け、首相まで輩出しています。

藤原という姓は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が晩年にもらった訳ですが
実質的な藤原氏の政治ということで言うと、文武天皇の時の、不比等(ふひと)からでしょう。

それまでは、天皇家の中で何とかしようという意識が強かった。
一人で大変なら、祭祀と政治に分け、政治は皇太子が行ったり。
皇后も天皇家から近親結婚でもらい、どんどん血を濃くしていた。

これ以降は、天皇の奥さんは藤原氏という時代が続きます。

政治も、皇太子が行うのではなく、藤原氏が行うというように変わります。

鎌足から不比等にすぐに移った訳ではありません。
鎌足の長男は、真人(まひと)
出家して、唐に渡り、帰国する直前で亡くなります
不比等は次男で、鎌足が無くなったときは11歳。
壬申の乱の時は、14歳で参戦していません。

持統天皇と文武天皇の関係で、当人達同士はうまくやっていたんですが
取り巻き連中の間で次第に派閥が分かれていきます。

壬申の乱で功をあげた老臣達が持統派
壬申の乱とは無関係な若い役人達が文武派

持統派は、年がたつにつれて一人二人と亡くなっていきますので
文武派が次第に力をつけていきます。

持統天皇自体も文武派たちに煙たがられるので
分かったわよ、勝手におやんなさいと
晩年はさみしい感じになります。

文武派の中で最も力を付けていったのが藤原不比等ということになります。
大宝律令を作る上での働きが評価されて、二階級特進
このあとずっと藤原氏の力を維持していく原動力、外戚作戦に出ます
不比等の娘、宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)とします
この時、皇后や妃は皇族でないといけないと決まっていたので、夫人と表現

文武天皇は皇后をおいていません。

そして、決定的になったのが文武天皇の子、聖武天皇の皇后として娘を送り込み
こっちは正式に皇后。光明皇后です

さあ、これからって時、
在位11年にして、残念ながら文武天皇は亡くなってしまいます。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

まこがれいのアクアパッツァとは何者ぞ

(3/14土の事です)
イオンに買い出しに。

すると、魚コーナーに、食品サンプルが。
まこがれいのアクアパッツァ 食べられません、と書いてあります。
食べられんのかいっ
特に作り方を書いてあるわけでもなく、じゃあいったい何のために

そうなると逆に気になります。
食品サンプルとはいえ、なんとも美味しそう

分かりましたよ
その作戦に乗ろうじゃありませんか

この白いのは「まこがれい」なんでしょうか
分かった! まこがれいはカレイの一種だな
可愛い名前をつけてもらって良かったね、まこちゃん

あと、あさりも買って、と

まこがれいのアクアパッツァ
さあ、人生初挑戦
どんなお味かな

ネットで「まこがれいのアクアパッツァ」と検索
すごいですね。そのようなものが日本でも検索出来るとは
良い世の中になりました。

この時気づきました。
ミニトマトを買うの忘れた。
ミニトマトも一緒に煮込むようです。
まあいっか
ミニトマトが入ってないのもあり、そっちは逆にあさりが入っていないので、
二つのレシピを組み合わせましょう。

作り方はいたってシンプル
まこがれいをオリーブオイルで両面焼き
あさりを入れて、白ワインを足す
アルコール分が飛んだら、水を加えて煮込み
塩こしょうで味を調えて出来上がり

まこがれい4切れがひとつの鍋におさまらなかったので、二つの鍋に分散。
一方の鍋ができたあとに、水を加えて煮込む工程があるのに気付き、若干ドタバタ

まこがれいのアクアパッツァだよ、召し上がれ

ミニトマトがあると見た目がもっと美味しそうになるんですが
次回に取っておきましょう

次女は一口食べるなり
うまっ

お父さんは料理が上手だねえ

誉めて伸ばす教育方針らしいです。

例によって、一週間分の作りおきをしますので、
この日作ったのは、あと我が家の定番もの

■鶏チャーシュー
鶏もも肉をたこ糸でぎゅっと縛ります。
南蔵院の縛られ地蔵の如し
鶏も美味しいのですが、いつも添える中の黄身が半熟のゆで卵が家族に大人気
沸騰したお湯で6分間ゆでたあと、冷水に取ると丁度です。
ごめんなさい、以下3つは写真を撮り忘れました。

■ブロッコリーのマヨパン粉焼き
ブロッコリーを堅めに茹でて、ウインナーとマヨネーズであえて、
パン粉を乗せてオーブンで焼いただけ
前回、焼きすぎてブロッコリーが真っ黒焦げになったのでリベンジ

■三色丼
挽き肉そぼろと、炒り卵と、ほうれん草のみじん切りの三色丼

次女から、明日はさばの味噌煮が食べたいなとリクエスト

日曜日
さばの味噌煮は私も大好物
おそらく料理界のノーベル賞

定食屋でさば味噌があれば、迷い無く頼みます。

でも、よく考えると作ったことがない
これは、いけません。
基本的な考え方がなっとりません。
アクアパッツァを作っている場合じゃありません。

せっかくですから、ちゃんと習得しましょう
さば味噌に始まりさば味噌に終わると、魯山人(?)も言うとります。

出来るだけ手間のかかりそうな、これでどうだ

5つのポイントを守るだけで「さば味噌煮」は劇的においしくなる!
プロも実践するふっくらジューシーの秘訣
https://www.gnavi.co.jp/dressing/article/21271/

「プロも実践する」がそそられます。
[point1]味噌は2回に分けて入れる。
[point2]調理の前に、熱湯をまわしかける。そのあと冷水につけて臭みの元の血合いを洗い流す。。
[point3]生姜と長ネギを入れる。
長ネギ無かったので、これは省略して生姜だけ
[point4]酒をたっぷり入れる。
[point5]一旦冷ましてから、弱火でじっくり煮詰める。

鶏の唐揚げは、2回揚げるというのを実践してから、美味しくなったので「2回」というキーワードは信用できます。
熱湯はかなり良い気がします。確かに血合いの赤いのが取れます。
酒は奥深いですね。色んな仕事をしてくれますが、全貌が見えません。
一旦冷ましてから、は肉じゃがの時にお勉強したので間違いありません。

ということで、さば味噌マスターだ

次女に、
どう?臭みがなくてふっくらなはずなんだけど。

うん、美味しいっ
臭みがなくてふっくらだよ

あとの作り置きは
■トマト卵

■アスパラとベビーホタテのガリバタしょうゆ炒め

■ビーフストロガノフ

■ポテトサラダ
山ほど作りましたが写真はなし

これで一週間持たせましょう

2ヶ月ほど前から若干状況が変わっています。
何かというと次女が弁当を持っていくようになったこと。
すぐにやめちゃうかと思っていたら、いまだに続いています。

弁当作りが大変なときは、作り置きから拝借ってこともありますが
その分、平日に作ってくれた次女の料理も回ってきたり、です。

[料理]シリーズはこちら(少し下げてね)

三ノ輪から下屋敷巡りの続き

三ノ輪から下屋敷巡り
の続きです。

公春院

真正寺

円通寺
なななんと、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が791年に創建
なんでそんなものが関東に

平安時代の初期、天皇でいうと桓武天皇あたり
ほぼ初めての征夷大将軍
将軍様でございます。

京都の清水寺とか富士山本宮浅間大社を作ったのも坂上田村麻呂というから超ビッグ
円通寺は清水さんの兄弟ということになりますね

そんな円通寺
なんじゃこりゃあ

観音様のタワーじゃありませんか
すごいっ。すごいぞ田村麻呂

上まで階段が付いているから、昇れるんでしょうね
入口が閉まっていた。
残念!檀家しか入れないのかなあ。

円通寺はまだまだ盛り沢山

かつて、百体の観音像を納めた観音堂があったので百観音とも呼ばれていました。

古地図にも、円通寺ではなく観音堂と書かれています。

時代が進んで、源義家
奥州征伐の帰りに、敵の首を48もここに埋めて塚を作った

だから、このあたりの地名は小塚原なんです。
こづかはらではなく、こづかっぱらと読むとかっこいいです。

大迫力なのが上野寛永寺の黒門

ここに移築されたんです。
明治維新の時、新政府に抵抗した彰義隊が寛永寺で上野戦争
これでもか、と銃弾を撃ち込まれ、蜂の巣状態


僅か半日で全滅。
人の体も同じ状態だったのでしょうか

見せしめにと、遺体はそのまま放っておかれます。
いくらなんでも可哀想と、
円通寺の住職が、遺体を運んできて、ここに墓を作った。

彰義隊に限らず、生き残った幕臣側の人達の追悼碑も
大鳥圭介

榎本武揚と高松凌雲

新門辰五郎まで

オールスターキャストでございます。

羊毛産業発祥の地
次は、羊毛産業発祥の地に向かいます。
カワズザクラ的なきれいな桜も咲いておりました。

井上省三の碑

日本に羊毛産業を立ち上げた人
助さん格さん役の羊が可愛い

伊勢亀山藩、石川家
さあ、下屋敷

まずは、伊勢亀山藩、石川家の屋敷跡
さっきのアーケード商店街、ジョイフル三ノ輪に戻り、真ん中辺の公園に案内板がありました。

広大な土地で、ジョイフル三ノ輪がすっぽりそのままです。

藩主石川憲之は芸術が大好き。

うちの藩にも才能あるのがいないかな
君なんてどう?
狩野派に入門してきてよ

異色の画家で、三宅島に流罪になっちゃう、英一蝶(はなぶさいっちょう)です

ということは、英一蝶もジョイフル三ノ輪に立ち寄ったに違いありません。

さくら餅を売っています。
「一度食べたら忘れられない味」
なかなかの誘い文句です。
さすがは英一蝶

桜の葉の塩漬けがあんと絶妙のハーモニー
後味がずっと残ってこりゃ忘れられません

伊予新谷藩、加藤家
次は伊予新谷藩、加藤家
残念ながら、ここが屋敷跡って案内板はなく
該当のところには万年筆屋さん

とても美しい

試し書き良いですか?

定番の「武家諸法度」と書きました

下野黒羽(しもつけくろばね)藩、大関家

11代藩主の増業(なすなり)はとっても学問好き
医学書や科学書等を書いています。
大関横丁、という地名はこの下屋敷に由来します。

対馬藩、宗家

出たっ。超大物
鎖国の二つだけの例外、朝鮮との貿易を独占的に認められていたのが、対馬藩です。
正式な国交があり、通信国と呼ばれます。
もうひとつは琉球。独占的に薩摩藩が認められていました。

あれ?オランダは?
実はオランダは正式な国交ではない、通商国です。
貿易だけOK
もうひとつ、通商国なのが清(しん)です。

おおっ
今日一番感動したものが、宗家下屋敷の中に

今時の子も、道路にチョークでケンパを書いて遊ぶのか
おじさん、嬉しいよ

思わず、ケンパケンパとやろうとしたんだけど
私の頃は、ケンパケンパケンケンパ、と決まっていたのに
ケンパケンケンパで始まる
リ、リズムがっ

町奉行、池田頼方
池田播磨守とあったから、来たっ、池田輝政、と思ったんだけど
残念、池田頼方
池田輝政の家来で、池田姓をもらった。

安政の大獄の時の南町奉行です。

この公園です。

目黄不動の永久寺

寿永寺
2代秀忠の正室、お江に仕えた寿永法尼が建てたお寺
下谷七福神では布袋さんです。

豪快!布袋さんはこうでなきゃ

千束稲荷神社

このあたりに住んでいた、樋口一葉が書いたたけくらべに、重要な舞台として出てきます。
ということで、ほれっ

きりっとして、なかなかの別嬪さんじゃないですか

おでかけマップ