[天皇]42 文武天皇。また、始まり物語

天皇シリーズ

文武(もんむ)天皇
697~707年

先代持統天皇の子の草壁皇子と、後の元明天皇の間に生まれたのが文武天皇
持統天皇は譲位します。
ただ、まだ幼かったので、持統天皇が太上天皇(だじょうてんのう)として政務を見ます。

この辺りの天皇は、ここから始まったんですよ、というのが目白押し
何と言っても一番は、律令制の始まり
天智天皇(中大兄皇子)の時に始まった法治国家
でも近江令 飛鳥浄御原令というように、令しかない。
政治の組織等の色んな仕組みを表したもの

文武天皇の時に、中国の律令制度に習い
律という刑罰も含めた形での初めて。
701年、なおいっそうの大宝律令です。

次に元号の始まりです。
最初の元号は大化の改新の時の大化
その後白雉(はくち)に変わるが、次に続かず、32年間、元号は置かれなかった。
斉明天皇、天智天皇の時には元号はなく
天武天皇の最後の方で、朱鳥(しゅちょう)という元号を設定したが
僅か6ヶ月でまた無くなっちゃった。

15年後に定められたのが大宝律令の大宝
それ以降は入れ替わりながら元号はずっと続くので
元号は大宝から始まったと言えるでしょう。

そして、一番重要なのは、藤原氏の政治の始まり。
とても長く続き、江戸時代に至っても藤原氏の摂関家は続き、徳川将軍は宮家か摂関家から正室を迎えます。
明治時代になっても影響力は持ち続け、首相まで輩出しています。

藤原という姓は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が晩年にもらった訳ですが
実質的な藤原氏の政治ということで言うと、文武天皇の時の、不比等(ふひと)からでしょう。

それまでは、天皇家の中で何とかしようという意識が強かった。
一人で大変なら、祭祀と政治に分け、政治は皇太子が行ったり。
皇后も天皇家から近親結婚でもらい、どんどん血を濃くしていた。

これ以降は、天皇の奥さんは藤原氏という時代が続きます。

政治も、皇太子が行うのではなく、藤原氏が行うというように変わります。

鎌足から不比等にすぐに移った訳ではありません。
鎌足の長男は、真人(まひと)
出家して、唐に渡り、帰国する直前で亡くなります
不比等は次男で、鎌足が無くなったときは11歳。
壬申の乱の時は、14歳で参戦していません。

持統天皇と文武天皇の関係で、当人達同士はうまくやっていたんですが
取り巻き連中の間で次第に派閥が分かれていきます。

壬申の乱で功をあげた老臣達が持統派
壬申の乱とは無関係な若い役人達が文武派

持統派は、年がたつにつれて一人二人と亡くなっていきますので
文武派が次第に力をつけていきます。

持統天皇自体も文武派たちに煙たがられるので
分かったわよ、勝手におやんなさいと
晩年はさみしい感じになります。

文武派の中で最も力を付けていったのが藤原不比等ということになります。
大宝律令を作る上での働きが評価されて、二階級特進
このあとずっと藤原氏の力を維持していく原動力、外戚作戦に出ます
不比等の娘、宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)とします
この時、皇后や妃は皇族でないといけないと決まっていたので、夫人と表現

文武天皇は皇后をおいていません。

そして、決定的になったのが文武天皇の子、聖武天皇の皇后として娘を送り込み
こっちは正式に皇后。光明皇后です

さあ、これからって時、
在位11年にして、残念ながら文武天皇は亡くなってしまいます。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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