[植木等]4 コミックバンド?へえ、そう

[植木等] 物語の始まり
[植木等]2 小学生が檀家を回ってお経
[植木等]3 いたんだねえ。あいつが
の続きです。

ハナ肇

ハナ肇との出会い

がさつだけど、親分肌のいい奴だったよ。
ハナは、初対面の時から僕には何でも話したね

14~5歳の時、こんな事があったんだって。
外に出たら寒かったので
「お袋、マフラー」って言った
聞き間違えて、お母さんが枕を持ってきた。
何だよこれ、って枕を投げつけたら
運悪く父親に見られ
こっぴどくぶん殴られた。
あんまり痛いもんで、その場でうんこ漏らしちゃったんだって。

翌年、川崎登美子さんと結婚。
その年の秋、植木の歌が初めて電波に乗った。
NHKのラジオ番組

奥さんとお父さんに良いとこ見せようと、スタジオに呼んだ

それでは、植木さんどうぞ。

すると、スタジオの隅に座っていたお父さんが、すっくと立ち上がった。

これにはビックリしたねえ。

自分が呼ばれたような気がしたんだって。
自分も植木さんだからね。

芸能の道を進み始めた植木だったが、あとが続かない。
ハナとやっているボーヤの仕事だって食っていける訳ではない。

天性のポジティブな性格と、貧乏になれている植木はそんなことではめげない。

子供が生まれるってことになって
歌だけじゃ厳しいなあ
そうだ。楽器を練習しよう。

選んだのはギター。
簡単そうだったから。
友達から、10回の分割払いでギターを買った。

その頃同じような理由で、ハナはドラムの練習を始めていた。

全くの自己流だったけど、
センスがあったんでしょう。
メキメキ上達し
二年後には、スイングジャーナルで新人ギタリストとして紹介されるまでになる。

そんな植木の前に、本格的に歌を教えてあげる、って人が現れる。
芸大の声楽科を出た、平山美智子さん

あなたは声が良いからちゃんと勉強すれば良い歌手になる。

ボイストレーニングってやつ

人の声は頭蓋骨の中で響いて出てくるんだけど
人それぞれ響く場所が違うの
その場所を意識しながら声を出すのよ。

言われるがままに、アーとかウーとか声を出すんだけど
頭蓋骨のどこで響いているかなんてわかりっこないよ

でも、基本的に真面目な植木は一生懸命練習する。

転機が訪れる。

楽譜が読めて、安いギタリストを探しているという
植木は平山のお陰で、楽譜も読めるようになっていた。

オーディションに出掛けていくと
8人編成の「デュークオクテット」というバンドだった。
率いるのは萩原哲晶(はぎわらひろあき)
後に青島幸男と組んでヒットを連発する。

すんなりOKになる

驚いたのは、あいつがいたこと。

なんでお前がいるんだよ

知らねえのか。
このバンドのドラマーは俺さ。

相変わらず偉そうに。
うんこ漏らしたくせにね。

進駐軍のクラブを回る日々

演奏は良いんだけど、それだけじゃ間が持たないから喋るんだけど
日本語が全く通じない。

進駐軍回りで知り合いになった、曲直瀬美佐(まなせみさ)に英語を教えてもらった。
美佐は後に渡邊晋と結婚し、共に「渡辺プロダクション」を立ち上げる事になる。

萩原哲晶、通称デクさんは、とても変わった人だった。

ある日、ストーブのそばで新聞を読んでいたら新聞に火が燃え移った。
さらに、オーバーコートにまで
でもそのまま、新聞を読んでいる。

デクさん、火ついてますっ

知ってますよ

また、ある時、崖の前に前向きに車を止めていて、車を出した。
車と共に消える

ギアをバックに入れちゃったみたいですね。

二年ほどたって、ジャズが一大ブームとなる
にもかかわらず、デュークオクテットが突然解散する日がやって来る。

みなさん、話があります。
今月いっぱいで私は辞めようと思います。
あとはみなさんでよろしくやってください。

メンバーだったらそれもあるだろうけど、リーダーですよ。
みんな開いた口が塞がらなかった。

メンバーはバラバラになった。

植木は「ニューサウンズ」というトリオバンドを組んだ。
小さいが自分がリーダーの初めてのバンド。

他のメンバーも食うに困る事はなかった。
ジャズのブームで食っていく位は何とかなった。

ただ、暮らし向きが良くなるところまでは行かなかった。
四畳半で5人で暮らした。

翌年、お母さんが亡くなる。

一番の後悔だね。
お袋には、苦労ばかりかけて
売れる前に亡くなっちゃったからね。
何度考えてもそれだけが悔しいよ。

さらに翌年、ハナから

フランキー堺のバンドで、ギターがいなくて困ってるらしいんだよ。
ちょっと顔出してやってくれないか

俺は今、自分でバンドをやってるんだよ

いいからいいから

ホントに顔だけ出すつもりで行った。

シティスリッカーズという名のコミックバンドだった。

コミックバンド?
音楽と笑いを融合するんだと。

へえ、そう。

今一つ実感が沸かなかったが
その考え方に引かれて、既に名の通ったトロンボーン奏者が
自分のバンドを辞めて参加したという。

谷啓との出会いだった。
ピアニスト、桜井千里もいた。

続きは、シリーズの次回ね。

[植木等]シリーズはこちら(少し下げてね)

信長の側近、黒い弥助と本能寺の変

「信長と弥助」という本を読みました。

弥助
天正7(1579)年
本能寺の変の3年前
ポルトガル領マカオから、大きな黒船が日本の九州へ向けて出発した。

イエズス会の宣教師と従者の一行が乗り合わせていた
その中でずば抜けて背が高く、強靭な肉体を持った20代前半のアフリカ人男性がいた。
後に「弥助」と呼ばれる。本名は分かっていない。

弥助の役割は、宣教師ヴァリニャーノを護衛すること。
ヴァリニャーノの目的は、貿易とキリスト教の布教だった。

当時の日本は戦乱の世
鎖国になったりキリスト教が弾圧されるのはまだ先
九州には、キリシタン大名と言われるキリスト教を信じる大名も存在していた。

口之津という港に着いたあと、長崎に移動
長崎は、大村純忠という日本初のキリシタン大名がおり、
イエズス会に土地を寄進。
キリスト教の拠点となっていた。

ヴァリニャーノは日本に溶け込むべく、メンバー全員に日本語を勉強させ
日本の礼儀作法を覚えさせ
自ら範を示した。
弥助は既に何ヵ国語か話せたので、日本語の習得も早かった。

ヴァリニャーノの功績で、かつてキリスト教を弾圧していた島原の藩主、有馬春信を改宗させ
洗礼を授けた。

2年間の滞在のあと、総仕上げとして京都への旅に出た。
次なるターゲットは当時、ほぼ日本全部を制圧する勢いの織田信長
堺の港に着いたあと、キリシタン大名の高山右近の庇護のもと、一行は京都へ向かう。

一行は人々を驚かせた。
特に飛びきり背が高く、肌の黒い弥助

本人達より先に噂が先に都に達し
京都に着くや否や、弥助はもみくちゃにされた。

信長の耳にも入った。
好奇心旺盛な信長は一刻も早く目にしたい。
そんな不思議な人間が存在するとはどうしても信じられない。
本当に黒いのだろうか。
単なる異人の悪ふざけではないのか。
あるいは余興のでっち上げか。
よし、見破ってやろう

信長の本陣、本能寺へ呼び出される。

弥助は学んだ日本の礼儀作法で
頭をできるだけ下げて、膝を着いたまま進み
信長から数メートルの距離で頭を床につけた。

表をあげい

そして、上半身を脱がせ
布で擦ったり引っ掻いたりさせた
何をしても黒い色が落ちない。

この肌は本物か。

矢継ぎ早に質問が飛ぶ
お前は誰で、どこから来て、どれだけ日焼けすればそうなるのか
家族はどうなのか。痒くはないのか

丁寧に答えるジェントルマンをすっかり気に入った。

褒美を取らせる。

数日後、ヴァリニャーノは数々の献上品を捧げた。
そして、その中の目玉が、弥助だった。

弥助は、世にも珍しい小姓として信長に仕える事となる。

弥助も新しい主君と、新しい国がとても気に入った。

信長は自慢の側近をどこに行くときも連れていった。
イエズス会にも便宜を図り、神学校を建設する土地も提供した。

弥助にも新しい地位を授け、従者つきの私邸と給与も与えた。
弥助もそれに応え、武士のしきたりにものっとり、懸命に仕えた。
知性も備えていた。

信長の好奇心は尽きず、外国のまだ見ぬ事を聞いてくる
精一杯分かりやすく応えた。

そして、あの日がやって来る
弥助が信長と初めて会った思い出の地、本能寺

本能寺の変
敵は本能寺にあり

全くのプライベートであり、想定外も想定外
守る兵はほとんどいなかった。
弥助と森蘭丸とを含む本当の側近のみ。

明け方、信長たちが目を覚ました直後に銃声が轟いた

瞬く間にあちこちに点在する建物が取り囲まれた。
火が放たれる。

もはやこれまで。
切腹の形式を整える暇さえなかった。
白装束も辞世の句も奉書紙を巻いた切腹用の刀もない
それでも、何としても切腹せねばならない。
捕まって、公開処刑など絶対にあり得ない。

蘭丸に介錯を頼む。
蘭丸は後を追うつもり。
弥助に最後の命令が言い渡された。

わが首と刀を絶対に敵に渡してはならぬ。

首と、出来れば遺体ごとここから持ち出すこと。
そして信長の刀を、後継者たる息子信忠に手渡すこと。

信長の刀と遺体を抱えて姿を表した時
残兵達は事情を察知した。

弥助を守れ!

弥助と織田の兵達は、炎の中を駆け抜けた。
塀を越えて脱出

遺体を焼くための小枝や枯れ葉などを集めた。
煙が立ち上る。

後を頼む

弥助は次なる課題のため、信忠の元へ向かう。
無事、信忠軍と合流し、共に御所を占拠
刀を手渡し出来たが、後継の証である刀も意味をなさなかった。
ほどなく、御所も明智勢に取り囲まれ
信忠も自害した。

弥助は逃げる事が出来た。

その後、弥助はどうしたのだろう。
その後の資料は残っていない。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[昭和歌謡]137 部屋とYシャツと私

昭和ヒット曲全147曲の真実シリーズです

部屋とYシャツと私
平松愛理
作詞・作曲、平松愛理
1992年

♪お願いがあるのよ あなたの苗字になる私
大事に思うならば ちゃんと聞いてほしい
飲みすぎて帰っても 3日酔いまでは許すけど
4日目つぶれた夜 恐れて実家に帰らないで

良いですね、この歌
可愛くて幸せそうで
同じテイストの曲として
太田裕美の木綿のハンカチーフ
沢田知可子の会いたい
とともに勝手に三部作だと思っております。

♪いつわらないでいて 女の勘は鋭いもの
あなたは嘘つくとき 右の眉が上がる

と伏線張っておいて
最後に

♪もし私が先立てば オレも死ぬと言ってね
私はその言葉を胸に 天国へと旅立つわ
あなたの右の眉 見届けたあとで

良いですね。とてもお洒落な構成です。
確かにオレも死ぬとは言うでしょうね
死ぬ訳はないですが、礼儀です。

右の眉が上がるかは微妙です

もし上がれば、
もう また嘘ばっかり ばれてんだから
と、笑いながら旅立てますが
上がらなかったら逆に大変ですね
うそ! 死なないで!
となります。

そのあと死ぬことは100%ありませんが
気持ちだけはその瞬間、本気でそう思うことはあり得ます。
男ってロマンチストですから。

私は、カミさんにいっぱい嘘をつきました。
相手を心配させないための嘘はどんどんつくべし、と思っています。
半分はばれるんですけど、半分はうまく行きます。
浮気っちゅうのはしたことないから、
しょうもない事ですけどね

カミさんっちゅう人種はビックリするようなところから気づきますね
こっちは必死で証拠隠滅をはかる訳ですが
あっ、そこで気づく訳ね、って

この歌、微笑ましくて、笑える歌ですが
ダメですね

私は最近涙腺がゆるゆるなもんですから
これすら、歌っていて、こみあげて来るものがあり
最後まで歌えませんでした。
フルコーラスはやめて、途中までにしました。

長女が披露宴の時、いらんことするもんで
「結婚前」というシチュエーションを思い浮かべるだけで、もうだめ
ほんまにあいつ、ええかげんにせえよ、と思います。

[昭和歌謡]シリーズはこちら(少し下げてね)

中川船番所資料館に行ってきました。

(1/23[土]の事です)

週末だけど雨
こんなとき用に、博物館ものを取ってあるのさっ

ええっと
あそこやら、こっちやら

えっ うそー
どこもかしこも、臨時休館中

ようやくたどり着いた「中川船番所資料館」
江戸好きにはたまらない、重要ポイントです。

こんな場所にあります。

隅田川の西側は地形が複雑なので、京都のように碁盤の目的街作りが出来なかったんですが
東側は低地で平らなので、かなりきれいに縦横の街作りが出来たんです。
道と運河を作っていった。

ここで、縦と横は、今の地図の感覚とは逆
江戸城に向かうのが「縦」
竪川(たてかわ)と小名木川(おなぎがわ)
それに交差するのが「横」
大横川と横十間川です。

船番所
船番所は海路での関所です。

元々は、小名木川の西側入口にありました

こちらも以前確認してきました

明暦の大火で江戸中が火の海になったあと
防衛のための街作りから、経済や防災のための街作りに基本的考え方を転換
中心にかたまっていた機能を外側に移していくんです。
その一環で船番所も移転します。

3階の大空間の中に船番所が再現されています。

白黒のおじさんに近づくとしゃべり出します

今日は何をされに来たのかな

見学でーす

ほう。見学とな

すごい。ちゃんと認識して答えたぞ
色んな事を教えてくれます。
GoogleMap に出ていた親切なおじさんが教えてくれるというのは
このおじさんかな


こっちのおじさんは酒樽を数えるのが大変という話をしてくれます

江戸時代を通して、関所なので
入鉄砲と出女、というチェックをする訳ですが
人の移動手段は陸路
海路の方が速いに決まっていますが
海路は品物を運ぶためのもの

不必要な不正な人が乗っていないか通行手形でチェックする訳です。

酒樽をチェックするというのは、おそらく享保年間の事を言っていると思います。
大岡越前のとった経済統制の政策です
詳しくはこちら
船番所が、単なる関所から、経済政策の重要なポイントにランクアップした訳です。

船番所には、結構位の高い旗本が勤めます。
中川番を勤めた有名人では、藤枝外記(ふじえだげき)
吉原の遊女綾絹と良い仲になった
下手すれば藤枝家の身上をつぶすことになるから
色んな方面から圧力がかかる

いよいよ、会えなくなってしまう

「綾絹」
「外記さん」

しっかり手を握り、二人逃亡

ほどなく見つかってしまい、
もはやこれまで
心中してしまうのです。

この事件は江戸中で評判になり

「君とねようか五千石とるか なんの五千石君とねよう」
という端唄が大流行します

海運の流れや
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船の種類の解説もありました。
江戸検定やっていると、船の種類の名前を覚えないといけないんですが
どんな形なのかは分からなかったのでとても興奮


明治に入っても、船番所は廃止されましたが、
小名木川の海運は続きました
小型の蒸気船も行き交っていました。

展望
川を眺められる展望ルーム
雨の日なのに濡れずに展望できてラッキー


下に見える川の駅からは
水陸両用車が発着するそうです。

企画展
企画展は渋沢栄一

渋沢栄一ファンとしては嬉しい限り
大河ドラマにもお札にもなるので、どんどん盛り上がっていくでしょう。
渋沢栄一ゆかりの地はあちこちいっぱいあるので、やりやすいと思います。

ここでは、江東区でのゆかりの地
一時期江東区に住んでいましたし
渋沢栄一が立ち上げた会社は、江東区にも無茶苦茶いっぱいあります。
写真NGのものが多かったんで、あまり写真は取れませんでしたが
住居の写真や間取りなど
表座敷と名前のついている住居

江東区での会社の立ち上げ時の色んな展示物も。

銀行、電気、ガス、砂糖、セメント、肥料、製紙、印刷、船、鉄、鉄道
ありとあらゆる産業の立ち上げに全部絡んでますからね

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)