[植木等]3 いたんだねえ。あいつが。

[植木等] 物語の始まり
[植木等]2 小学生が檀家を回ってお経
の続きです。

真浄寺
植木等が修行に入ったのが、本郷の真浄寺
住職の寺田慧眼はヒューマニストでとても優しい
ただ、先輩の坊主たちは新入りに辛く当たった。

へまやると先輩にぶん殴られる。
ぼんやりしてたら殴られるし、ぼんやりしてなくても殴られる。
なんでもかんでも殴られる

でも、卑屈になることはなく、素直な性格はそのままで、5年の修行を終える。

大学時代
お父さんの徹誠がようやく出獄
ミキモト時代の知人に呼ばれて東京に出てきた。
等は、東洋大学を受験して合格

5年ぶりに家族と暮らす家は、西新井のお大師さん辺りの借家だった。

東洋大学では、陸上部に入った。
足の速さは、父譲りで自信があった

ただ、これだけでは飽きたらない
色々メンバーを集めて、軽音楽同好会を作った。

さあ、「植木等」の第一歩

自分のパートはボーカル
ピアノやアコーディオンのメンバーを集めた。

レパートリーは、ラジオ歌謡に軍歌、シャンソンにタンゴ等々何でもござれ。
「ラ・クンパルシータ」や「枯葉」を日本語で歌っていた

それで、都内に三ヵ所あった軍需工場に慰問に行くわけ。
これが、女工さんたちからもてたのなんのって
やっぱり坊主の仕事って面白く無さそうだったし
楽しく人生をおくれた方が良いよな、って漠然と思った。

ただ、すんなりは行かなかった。
昭和20年3月10日、東京大空襲
植木家も丸焼けになり、焼け出される。

まあ、生きてれば何とかなるから。
等が、母や妹を励ます。

大空襲から2ヶ月がたった5月
等は北海道に狩り出される
「援農」ってやつ
近所の人が、もう会えないかも知れないと、送別会をやってくれた。
女っ気がないのはさみしいと、女の子も数人呼んで。

北海道に、その内の一人から手紙が届いた。

今そちらはどうですか。何をされていますか。

川崎という娘
後に、等の奥さんになる

北海道で3ヶ月がたった時
ラジオから、雑音だらけで聞き取りにくい声が聞こえた。

これからどんな時代になるのか
多くの日本人がそうだったように
等にも皆目見当がつかなかった。

芸能界
翌年の昭和21年1月、テイチクレコード本社で新人歌手コンテストが開催された。
敗戦後1年経っていない訳です。
すごいですよね、このバイタリティ。
新人歌手コンテストをやりますか。

1500人も応募があった。
等も応募して、オーソレミヨを日本語で歌った。男の純情と。
4人が合格。
等も見事にその中に。

君には、先輩歌手の前座で歌ってもらおうと思う。

それは無理ですね

えっ、なんで?

学校行かないといけませんから。

何だとぉ。何しに来たんじゃあ。

それで、自分は必要とされていると分かったのね
自分は本当に歌がうまいのかも知れないって。

歌で食っていきたいと思った。

父親に話す。

生意気言うんじゃねえ
と、殴られた。

父が若いとき同じことがあって
義太夫のプロになりたかった。
思いきり反対されて断念した。
全く同じ言い方

殴られたけど、それで終わった。

大変だったのはお母さんの方だった。
寺に修行に出し、自分の寺を継いでもらえると思っていた。
仏教の大学にも合格したのが嬉しかった。

ご先祖様に申し訳がたちません
と、泣き崩れる。

真浄寺の住職さんも思いきり反対
あなたは何のために辛い修行に耐えてきたの。

父は断念したけど、等は断念しなかった。

そんな等の耳に、海の向こうから心地よい音楽が届く。
ジャズ

ボーヤ
ボーヤ(バンドボーイの俗称)を探しているという噂を聞きつけて「刀根勝美楽団」を訪ねた

そこに、いたんだねえ。

ボーヤの先輩。

俺の言うことを聞けよ。絶対間違いないんだから
とエラソーに

何なんだこいつは。
歳を聞いてみたら、自分より3つも年下。
ぶんなぐってやろうかと思ったよ。

野々山定夫
後のハナ肇だった

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[植木等]3 いたんだねえ。あいつが。」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: [植木等]7 こりゃまた失礼致しました。 | でーこんのあちこちコラム

  2. ピンバック: [植木等]10 全部一生懸命やって来たけどね | でーこんのあちこちコラム

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