壬生忠岑(みぶのただみね)
はるたつと いふばかりにや み吉野の 山もかすみて けさは見ゆらん
(ただ暦の上で立春になったと言うだけで、今朝見る吉野山は春霞で霞んで見えるようだ。)
壬生忠岑も『古今和歌集』の撰者です。
醍醐天皇に認められた訳で、大変名誉なこと
さらにこの、はるたつと~の歌は三番目の勅撰集『拾遺和歌集』で
巻頭歌に選ばれています。
トップバッターです
藤原公任(きんとう)は、和歌九品(くほん)の中で、
和歌を上の上から下の下まで9ランクに分けているのですが
この歌を上の上にランキングしています。
今日は立春
単に暦の上だけなんだけど
そう自分の中で思っただけで
吉野の山に春の霞がかかったような気がするよ
気のせいなんだろうけどね
って歌
霞がかかっているさまを風情があると読むのは普通
かかっていないのにかかっているように見える、という歌は
上の上でないと読めません。
さすがです。
百人一首はこちら
有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂(う)きものはなし
こちらの歌も、古今集の中ではナンバーワンと言われている。
この前、逢ってもらえた時
なんだか明け方の別れ際に、つれないそぶり。
何か気に障ること言っちゃったのかなあ。
気持ちが離れちゃったのかなあ。
これっきりにしたほうがいいのかなあ。
それ以降、明け方がどうにも苦手になっちゃったんですよ
っていう歌
いずれも表現が直接的でないから
ぼわっと、読んだあとに残るものがあるんですよね
それでは、今度は秋の歌
久方の 月の桂も 秋くれば 紅葉すればや 照りまさるらむ
月に生えているという桂の木も
秋が来ると紅葉するのかもしれないな
月の光がいつにも増して明るいから
中国の伝説で、月に桂の木が生えているというのがある
そこから、インスピレーションして
なるほど、秋になって月の光が冴えて来るのは
桂が紅葉しているからなのね、って歌
和歌には本歌取りという手法があります
以前に歌われている歌に似た歌にし
本歌の世界観を読む人にイメージさせ、その上で自分なりの味わいをさらに足す。
後のそうそうたる和歌の達人が
この「久方の月の桂」を本歌取りするわするわ
本歌取りは、みんなが知っている歌で、
とても優れたイメージを沸かせてくれないと意味がないので
言わばパロディの嵐でございます。
ざっとこんな感じでしょうか
夏の夜の月の桂の下紅葉かつがつ秋の光をぞ待つ(二条院讃岐[新続古今])
よひの間の月のかつらのうす紅葉照るとしもなき初秋の空(鴨長明)
久方の月の桂のしたもみぢ宿借る袖ぞ色にいでゆく(藤原定家)
紅葉する月のかつらにさそはれて下のなげきも色ぞうつろふ(〃)
ことわりの秋にはあへぬ涙かな月の桂もかはる光に(俊成女[新古今])
秋の色を払ひはててや久かたの月の桂に木枯しの風(雅経[新古今])
見るままに色かはりゆく久方の月の桂の秋のもみぢ葉(藤原資季[新勅撰])
ながめつつ月の桂の紅葉葉は時雨せぬにぞ秋まさりける(順徳院)
照りまさる月の桂のもみぢばはちらぬ高根に秋風ぞふく(正徹)