[三十六歌仙]10 壬生忠岑。最高峰はこれだ

壬生忠岑(みぶのただみね)

はるたつと いふばかりにや み吉野の 山もかすみて けさは見ゆらん
(ただ暦の上で立春になったと言うだけで、今朝見る吉野山は春霞で霞んで見えるようだ。)

壬生忠岑も『古今和歌集』の撰者です。
醍醐天皇に認められた訳で、大変名誉なこと

さらにこの、はるたつと~の歌は三番目の勅撰集『拾遺和歌集』で
巻頭歌に選ばれています。
トップバッターです

藤原公任(きんとう)は、和歌九品(くほん)の中で、
和歌を上の上から下の下まで9ランクに分けているのですが
この歌を上の上にランキングしています。

今日は立春
単に暦の上だけなんだけど
そう自分の中で思っただけで
吉野の山に春の霞がかかったような気がするよ
気のせいなんだろうけどね

って歌
霞がかかっているさまを風情があると読むのは普通
かかっていないのにかかっているように見える、という歌は
上の上でないと読めません。
さすがです。

百人一首はこちら
有明の つれなく見えし 別れより 暁(あかつき)ばかり 憂(う)きものはなし

こちらの歌も、古今集の中ではナンバーワンと言われている。

この前、逢ってもらえた時
なんだか明け方の別れ際に、つれないそぶり。
何か気に障ること言っちゃったのかなあ。
気持ちが離れちゃったのかなあ。
これっきりにしたほうがいいのかなあ。
それ以降、明け方がどうにも苦手になっちゃったんですよ
っていう歌

いずれも表現が直接的でないから
ぼわっと、読んだあとに残るものがあるんですよね

それでは、今度は秋の歌

久方の 月の桂も 秋くれば 紅葉すればや 照りまさるらむ

月に生えているという桂の木も
秋が来ると紅葉するのかもしれないな
月の光がいつにも増して明るいから

中国の伝説で、月に桂の木が生えているというのがある
そこから、インスピレーションして
なるほど、秋になって月の光が冴えて来るのは
桂が紅葉しているからなのね、って歌

和歌には本歌取りという手法があります
以前に歌われている歌に似た歌にし
本歌の世界観を読む人にイメージさせ、その上で自分なりの味わいをさらに足す。

後のそうそうたる和歌の達人が
この「久方の月の桂」を本歌取りするわするわ

本歌取りは、みんなが知っている歌で、
とても優れたイメージを沸かせてくれないと意味がないので
言わばパロディの嵐でございます。

ざっとこんな感じでしょうか

夏の夜の月の桂の下紅葉かつがつ秋の光をぞ待つ(二条院讃岐[新続古今])
よひの間の月のかつらのうす紅葉照るとしもなき初秋の空(鴨長明)
久方の月の桂のしたもみぢ宿借る袖ぞ色にいでゆく(藤原定家)
紅葉する月のかつらにさそはれて下のなげきも色ぞうつろふ(〃)
ことわりの秋にはあへぬ涙かな月の桂もかはる光に(俊成女[新古今])
秋の色を払ひはててや久かたの月の桂に木枯しの風(雅経[新古今])
見るままに色かはりゆく久方の月の桂の秋のもみぢ葉(藤原資季[新勅撰])
ながめつつ月の桂の紅葉葉は時雨せぬにぞ秋まさりける(順徳院)
照りまさる月の桂のもみぢばはちらぬ高根に秋風ぞふく(正徹)

[短歌]シリーズはこちら(少し下げてね)

[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
の続きです。

長時と政村
北条執権5代の時宗は、独裁体制を確立。
ところが、それに満足しちゃったんだろうか
元々健康には不安があったということもあり
息子の時宗に執権を譲り、自分は出家
まだ30歳なんだけど。

そして、時宗はまだ幼児。
天皇ならまだしも、実際に政治を司るのが執権だから
いくらなんでも無理があると思い直して、
叔父さんの長時(6代)に時宗が成人するまでの中継ぎを依頼

ええよ

そのあと、時頼は37歳で亡くなる。
やっぱり、健康上の問題だったんですね

「中継ぎ」だとの約束は
えっ、何の事でしょう と言っちゃって、
自分の子供に執権を譲っても良さそうなもんですが
良い人なんですね。そうはしなかった。

なんと時頼が亡くなった1年後、35歳と若かったんですが
自分も病に倒れ、亡くなっちゃいます。

まだ、時宗、成人しておりません。

北条家の人たちは寄ってたかって良い人なんでしょうか
今度は、政村(7代)が中継ぎ承知でかって出ます

政村は元々60歳のおじいちゃん。

ようやく時宗成人
はいどうぞ

時宗(ときむね)
北条執権は8代の、時宗に移ります。
出ました、時宗。
時宗と言えば、蒙古襲来です。

外国軍が侵略のために、日本にやって来たのは
長い日本の歴史の中でも、蒙古襲来と太平洋戦争のみ。
我々の世代は、元寇(げんこう)って言っていたけどなあと思って調べてみると
どっちでも、良いらしい。

金がモンゴルに滅ぼされた。
そのまま南下して南宋も風前の灯

へえ

この時点ではまだ対岸の火事

南宋が何とか踏ん張って持ちこたえたので
矛先を朝鮮の高麗に変えた。
1258年、高麗が降伏

そうなるともう目と鼻の先

1260年、モンゴル皇帝が第5代のフビライハンに変わる
フビライハンはイケイケ

もう一回、南宋へ向かう。

その一方で、日本の太宰府に使者を送る

貿易しませんか。

ほんまに? なんかとても高圧的な文章ですけど。

分かりました? 実は降伏しなさいという意味です。

あらま。そういうことなら、一大事。
鎌倉に聞いてみますんで、少々お待ち。

この時、正確に言うと、まだ時宗になっておらず、執権は7代政村
緊急幹部会議

どうしましょう

どうもこうも、はい、降参します、って言うわけないよね

おっしゃる通り

じゃあ、降参しません、来るなら来い、と返事しましょうか

ちょっと待ってよ。
それもダメでしょう
こうしましょう。
返事しない、って事で。

賛成ーっ

怒らせちゃいました。
でも、フビライハンは南宋で忙しいので
日本には再三の使者

日本は一貫して、「返事しない作戦」

1273年、南宋の襄陽(じょうよう)と樊城(はんじょう)が陥落
完全には落とせていませんが、
フビライハンはほぼ大丈夫と考えたのでしょう。
とうとう、矛先が、日本に向いてしまいます。

文永の役
1274年。ぶえーっ。文永の役

高麗に将軍の洪茶丘(こうちゃきゅう)を派遣して、戦艦を作らせる。
約900隻が、朝鮮半島の合浦に集められた。
その船に乗り込む兵力は、元軍と高麗軍合わせて3万人。
総司令官はモンゴル人の都元帥クドゥン(忽敦)、
副官は、漢人の劉復亨(りゅうふくこう)と高麗人の洪茶丘である

10月に出港した元軍は、瞬く間に、対馬、壱岐を制圧する

さあ、どうする

このあとは、シリーズの次回ね

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]88 後嵯峨天皇。長年の火種を作った天皇。

天皇の歴史としては大きな転換点となる天皇です。

後嵯峨天皇
1242~1246年

前の四条天皇、2歳で即位したが、病弱なのでそう長くはなく
守貞親王の皇統は途切れるだろう
ということで、早い段階から次への一手の検討が始まっていた。

交野宮(かたののみや)のところまで話しましたね
せっかく候補になったのに、本人がびっくり事件を起こしちゃって離脱

となると、候補は3人
1.仲恭天皇
2.土御門天皇の息子
3.順徳天皇の息子

いずれも、承久の乱がらみ

仲恭天皇は即位の礼すらしてもらえず史上最短で廃帝させられた。
その人を復活させるっていうのもねえ。

残りは二人だけどやっぱり、島流しとなった天皇の息子って大丈夫なの?

道長を中心とした、公家達は強く順徳天皇の息子を推す
順徳天皇はとても優秀な天皇だったから、その夢をもう一度

ただ、幕府(執権)側がどうしても認められなかった。
後鳥羽上皇と共に中心になって承久の乱を起こした張本人の息子
ここで、その皇統に天皇を継がせるってことは

天皇を臣下の筈の執権が配流させるという前代未聞の事をやったそれを
間違いだったということに等しい。

ましな方という判断。
土御門の系統ならなんとか

12歳にして、亡くなってしまった四条天皇のあと
後嵯峨天皇が即位することとなった。

譲位
守貞親王の系統と異なり
後嵯峨天皇には複数の息子がいた

守貞親王系統が散々繋ぐことに苦労したのに比べると安泰。

第一皇子は宗尊親王(むねたかしんのう)
宗尊親王が天皇を継ぐと思いきや、
第二皇子が天皇を継ぐことになった。

おそらく母親の家柄
宗尊親王のお母さんは、中宮でもないし、公家でもない

この頃の天皇にとって一番の関心事は
よし、国のトップとしてこんな政治をするんだ、というようなことではなく
早く自分の息子に天皇を譲って、自分の皇統を作り上げること。

たった4年天皇をやっただけで、もう譲位。
後深草天皇です。

宗尊親王かわいそう
でも大丈夫。
執権の時頼は、摂家将軍より
自ら天皇と直接やり取りしたいがために
将軍家と天皇家とを一緒にしちゃおうというスペシャルプラン

大変失礼なんですが
宗尊親王空いてますよね。

頼継将軍を失脚させ、宗尊親王を将軍に。

複数息子がいた、と言いました。
実はもうひとり。

後深草天皇と同じ母親の弟です。

後深草天皇には健康上の不安があったので、
弟がいれば、安心安心。

と思ったのですが
この、二人の息子が、このあととても長く続く天皇家の火種
両統迭立(りょうとうてつりつ)
そして、その延長で、南北朝という天皇家分裂にまで発展しようとは。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

靖国神社の遊就館に行ってきました。

今日は祝日
でも、歴史検定へ2ヵ月となったため
おでかけせず、勉強とするかな

もくもく

午前中が終わった段階で
うーん、出掛けたくなってきちゃった。

こういうのどうだろう。

歴史検定の勉強とおでかけを兼ねる。

かしこいっ

となったら大急ぎ。
数時間しかないから、一ヶ所だけにしよう。

今、近代、即ち明治から昭和の戦前まで
としたら、あそこしかなかろう。

遊就館
去年行って、戦争の博物館としての充実ぶりに驚いたんだけど
その日は時間がなかったので、絶対また来るぞと。
千鳥が淵から

さあ、今まで覚えたことの確認と、いまひとつ繋がりの分からないところの学習

基本、写真NGだったんですが、大丈夫。
最後にショップで、靖国神社遊就館目録、って本を買いました。
かなり高かったんですけどね。

そこから引用しつつ、話を進めることにいたしましょう。

神武天皇から、江戸時代までは、近代に比べるとあっさりめ
面白いのは、新田義貞や、楠木正成は出てくるのに、足利尊氏が出てこない。
天皇から見ると朝敵ってことですね

まるっと飛ばして、明治に参りましょう。

士族の反乱

はい、覚えてますよ
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱
そうなのか、それぞれこんな場所だったのか
地図があるととてもイメージがわきやすい。

佐賀の乱は、後藤新平で、萩の乱は前原一誠だけど、あとの二つは何だっけ
秋月の乱は、なんちゃら車之助
覚えている一問一答をタブレットで確認して
そうそう、太田黒伴男と宮崎車之助

って感じで確認しつつ進めます。

日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、支那事変、太平洋戦争と進んでいきます。

日清戦争

日露戦争

日清戦争なのに、ほぼ戦地は朝鮮で
日露戦争なのに、ほぼ戦地は中国
とても不思議な戦争です。

こうしてみていくと、
いかに、日本はずっと戦争していたのか、と思います。

結局、日本にとっては朝鮮と中国がとても重要な場所で
世界にとっても中国はとても重要な場所

今日は、ここまでにします
近代は首相を軸にシリーズにしていましたが
今度、戦争を軸にシリーズ化してみようかなと思っています。

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