[北条]14 高時。滅亡へのカウントダウン

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ
[北条]8-2 時宗。元がやって来た。こあーっ
[北条]9-1 貞時。神様にも言い分が。
[北条]9-2 貞時。ヒエーッ、何ともならん
の続きです。

嘉元の乱以降、あんなにやる気のあった貞時は
すっかりやる気を失い酒浸りの毎日。

高時
その息子、高時は、物心ついた時から
そんな変わり果てた貞時しか見ていません。

貞時が亡くなった時、高時は9歳でした。

高時政権の最高実力者となったのは、
かつて高時の祖父時宗を支えた安達泰盛の弟の孫安達時顕と
平頼綱の従兄弟の子長崎円喜

高時には何の権限も与えられませんでした。

酔っぱらいの父を見て育った高時にやるべき事が与えられず
闘犬と田楽踊りが大好きな酔っぱらいになっていきました。

時代的にはこの辺り
滅亡へのカウントダウンです。

朝廷側に何も起こらなければ、
じり貧なまま、次につなげられたかもしれません。

朝廷が後醍醐天皇だった。
朝廷内のいざこざに、知らぬ存ぜぬで通したかったし
そのつもりだったと思うが
結果的に後醍醐天皇の意図と異なってしまった。

1324年、後醍醐の反乱。正中の変
この時はおとがめなしにしたんですが。

1326年には、病のため24歳で執権職を辞して出家
もう執権ではないので、関わらなくても良かったんじゃないかと思いますが。

後醍醐再びの反乱。
捕らえて、隠岐に配流
ところが
1333年閏2月に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵

反乱を征討すべく仕向けた中に、足利尊氏と新田義貞がいた

二人に対してとった強い態度が反感を買い
倒幕へと一気に流れていこうとは。
結局は、全国の武士が押し寄せてくる。
このあたりの事は、後程詳しく辿っていくことにします。

そしてとうとう、新田義貞軍に、鎌倉に攻め入られ
高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、
北条一族や家臣らとともに自刃して果てた。享年31(満29歳没)。

高時の最期であり
鎌倉時代の最期です

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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