[北条]9-2 貞時。ヒエーッ。何ともならん

[北条]3 北条泰時。激動から安定へ。御成敗式目でどうだ
[北条]4,5 経時そして時頼
[北条]8 時宗。元がやって来た。ぶえーっ
[北条]8-2 時宗。元がやって来た。こあーっ
[北条]9-1 貞時。神様にも言い分が。
の続きです。

この辺りの時代の事になります。

背景
鎌倉時代の後半、政治がどんどんゴタゴタし
幕府が滅び、新しい時代への入れ替わりが迫ってくる訳ですが
そのゴタゴタに入る前に
なぜ、そうなったかという大きな時代背景を踏まえましょう。

鎌倉時代の後半というこの時期は、
日本の歴史の中でも、特に気候が不安定で
飢饉が何度も起きていた
元寇を退けた暴風雨にしても
実はそんなに珍しいことではなく、
この時期、結構頻繁に起きていたのです。

そんな日本中が疲弊している時期に、追い討ちをかけるように元寇
農民たちはえらく大変な時期だったのです

農民って、絞り取られるだけ絞り取られて可哀想ってイメージですが
実はそんなやわじゃない

荘園制度が複雑化を極め
多重に荘園への権利者が存在

農民たちからすると、払えんもんは払えん
バンバン訴えを起こし
もっと負担を軽減してスッキリさせろと
聞き入れないんだったら、ストライキして、稲は刈りない
おたくとは縁を切って他の荘園主に守ってもらっても良いんですよ

そんな強気に出るためには力が要ります。
「悪党」と呼ばれるどこにも所属しない武装集団が発達し
武力を契約で手に入れられるようになったのです。

そんな不満いっぱいの世の中を背景に、鎌倉時代が崩壊し
新しい時代へと切り替わっていくのです。

平頼綱の政治
平頼綱の政治は7年半続きます。
単なる主導権争いだったので、安達泰盛の路線は引き継がれます。
平頼綱の一番の関心事は自身の権力の強化

将軍は、惟康(これやす)親王
親王って言うくらいですから、天皇の息子
親王宣下を受けているということは、そのあと天皇になる資格を有していることになります。
ところが、1270年に臣籍降下で「源」になっている
源惟康(みなもとのこれやす)
途絶えたはずの源頼朝の家を継承する
源実朝横死以来、51年ぶりで鎌倉に源氏将軍が復活していた

ところが、平頼綱は自分の権力が強力であることを示さんがため
せっかくの源惟康を惟康親王に戻させた

なぜそんなことをしたか
あることの準備

将軍の交替

朝廷は大覚寺統と持明院統が激しく対立している
大覚寺統が天皇であるこの時期に
持明院統の後深草の皇子(伏見の弟)久明親王に肩入れした。

平頼綱は、天皇の補佐である将軍の、そのまた補佐の執権北条貞時の家来に過ぎないのに
朝廷の人事、将軍の人事にまで介入出来るんだぞと。

将軍を久明親王に入れ替えるのです。

貞時
そんな平頼綱を静かに見ていたのが、北条貞時
執権になったときは幼かったので、安達泰盛や平頼綱に中継ぎをしてもらう必要がありましたが
もう24歳になっていた。

そろそろ引っ込んでもらいましょう
平頼綱を討て

平禅門の乱。殺されちゃいます。
それなりに一生懸命頑張ったんだと思いますが
主君に殺されるんじゃ可哀想

はい、私が全部やります。
意欲満々

永仁の徳政令
安達泰盛の作った徳政令という路線を継承しつつ発展

引付衆という裁判担当を解散
全部私が聞いて、白黒判断しましょう。

意欲は買えますが、
やってみると、とても一人でなんとか出来る量ではない

ヒエーッ。何ともならん
引付衆は復活

人事で主要なポストの御家人は全部交替
自分の兄弟やいとこたちで固めます。

ところがそんな事をすると、クビになった人たちが黙っちゃいません。

どんどんイザコザが増えていきます。

そしてとうとう、1302年
抵抗勢力に、周りを固められ、実質敗北
右腕として重用していた宗方に全責任を擦り付ける形にし
宗方を討たせます。
1302年、嘉元の乱

完全に政治に興味を無くし
酒浸りの生活に入っていきます。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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