[足利将軍]3-5 足利義満。南北朝統一

[足利将軍]3-1 足利義満。言うだけの事はある
[足利将軍]3-2 足利義満。室町時代の始まりの大行事
[足利将軍]3-3 足利義満。手紙持っていっただけなんですけど
[足利将軍]3-4 足利義満。室町殿と公方様
の続きです。

南北朝統一
義満は朝廷(北朝)の支配者となった
あとは、南朝に味方するものを潰して行けば、南朝は屈服する

直臣団というものを作り
大名の長男以外に働きかける
稼げるお仕事あるよ
大名家にいたって良いことないでしょ
こっちにおいでよ

分裂させて大名家の力を削いでおいて
土岐康行の乱、明徳の乱

南朝側のもっとも有力な大名を征した

完全に孤立した南朝は、明徳3(1392)年、
義満の出した講和条件をあっさり呑み、帰京

形式上、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位したことにして、
南朝の面子を立てつつ北朝が存続した

義満が南朝の体面を立てた理由はただ一つ、三種の神器の回収
神器さえ回収できれば、講和の条件はただの紙切れだった。
後小松の次は後亀山の皇子を天皇にするはずだったが、
義満の没後、後小松の皇子の称光天皇が立った。
後亀山上皇は抗議して京都を出奔したが、誰も反応しなかった

相国寺の大塔
義満の日本統一は完遂した。
義満はそれを天下に示す巨大オブジェを建造した。
相国寺の七重塔、通称「大塔」である。

その高さは何と109mもあり、前近代で最も高いと思われる
東寺の五条塔の2倍
今の建物でいうと、京都タワーとほぼ同じ

右の北野経王堂というのも、義満が作らせたどでかい建物

残念。避雷針の技術がまだなかったのでしょうか
たった四年後の応永10年に、相国寺大塔は落雷で全焼した。
義満はすぐに自分の山荘「北山殿(今の金閣寺)」の横に再建したが、
13年後また落雷で全焼
2年後に将軍義持が再建し始めたが、完成しなかった

出家
統一を果たした義満
このあとどうしようか

この時、35歳

父の義詮は38歳で他界

38歳で出家するのが自然な流れと考えたのだろう
そこまでの3年間をスケジュールする

身分的には太政大臣(だじょうだいじん)しか残っていない
太政大臣は名誉職なので、就任したら1年くらいで辞任する

とすると37歳での太政大臣就任
将軍職も譲る必要がある
幸い息子の義持が育っていた

太政大臣就任と同じタイミングにしよう

全て計画通りに進み、38歳にして出家

あとは全てから手を引き、息子に任せて
静かな余生を送る

なりません

義満の義満たるゆえん

出家は、今までのあらゆる前例から解き放たれる理由付けに過ぎなかった

室町殿、公方様と新しい支配者の概念を作り出してきた義満
最終段階に入ります

「北山殿」
ここからは、シリーズの次回

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