[足利将軍]3-6 足利義満。北山殿という最終段階

[足利将軍]3-1 足利義満。言うだけの事はある
[足利将軍]3-2 足利義満。室町時代の始まりの大行事
[足利将軍]3-3 足利義満。手紙持っていっただけなんですけど
[足利将軍]3-4 足利義満。室町殿と公方様
[足利将軍]3-5 足利義満。南北朝統一
の続きです。

出家
義満が作り出した新たな支配者の概念、室町殿、と公方様、の話をしました。
武士と朝廷の両方を実質的に支配するものとして
目に見える形として明らかにしたのが室町殿でした

そして、いよいよその最終段階になります。

38歳にして出家

将軍職を息子に譲り
普通に考えると余生をゆったりと世捨て人として生きる

そうはいきませんでした

終わりの始まり
義満にとってみれば、全く新しい考え方をスタートするために
今までのものを捨てる形をとった

出家と聞いて慌てた後小松天皇が室町第に慰留に言ったが
その時、義満は言い切った
政治は今後も私が取り仕切り、朝廷への出仕も何一つ従来と変わらない

変えたのは概念
今までの「形」によるならば
義満は天皇が君主であるのにたいして臣下でしかなかった
実質がどうあれそれは変わらない

であれば、その構造の「外」に出よう
「武士の長であると同時に廷臣の長である者」から
「武士の長と廷臣の長を従える何者か」に変貌する

外部からの支配
それを目に見える形として内外に示す
そのために必要だったのが「京都を出る」事だった

北山殿
大阪京都旅行で家族と行った金閣寺です。
それを肌で感じるために金閣寺に行きました

金閣寺の場所、北山は今でこそ京都の中ですが
当時は、京都に極めて近いが京都とは違う場所

かつて西園寺家の屋敷だった場所を買い取り
新たな支配の本拠地、北山殿を作った

室町弟でなされていた政治や
訴訟に関わることも、「北山殿」に移った
主要大名は、北山殿の近くに移り住み、北山殿に勤務する

北山殿は「山荘」とは名ばかりの、「国家の中心的な政庁であり、宮殿」となる

外に出ることによって
今までの決まり事は無視してもよい

内裏の周辺は、天皇以外は年寄りと女性以外は牛車に乗ってはいけなかったが
38歳にして堂々と牛車に乗った

「院」という待遇は天皇経験者にしか許されず
鎌倉時代前期に後堀河天皇の父の守貞親王が「後高倉院」となったのが、例外中の例外

義満は、それら正規の手続きを一切踏まずに、院と同等の待遇を獲得した。
つまり、彼は院でも上皇でもないが、「院と同等の何か」になった

日本史研究の中でたびたび言われるのが
「義満は天皇になろうとした簒奪者」論

おそらく違う
臣下が君主を超えるのは難しいが
臣下でも君主でもない第三の人種になった
言い方を変えると、天皇になる必要がなかった

「義満は天皇になろうとした簒奪者」論のもうひとつの論拠が
中国(明)の皇帝から「日本国王」に冊封(さくほう)されたこと

決定的と言えそうだが、どうも違う

冊封って中国の傘下に入る事を意味するから
あくまで独立色を強く出したい日本の天皇はずっと拒否し続けてきたこと
天皇としてはうらやましくも何ともない

枠組みから外れた義満だからできること
何と義満は公式にではなく「個人的」に国王として中国と貿易した

中国は中国でうまく行かなかった時に
正式なもんじゃないんですわ、という保険をかけたい
お互いにいつでも引ける関係での取引、という利害が一致した

お陰で義満は膨大な財力を個人的に手に入れる
やりたい放題は財力が裏打ちされてのこと

こうして「最終的な形」が完成
「天皇になる」などということは、義満にとれば
むしろ邪魔な事だったろう

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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