[明治]野球は最初こんなだった

WBC盛り上がってますね
ということで、野球の話題。

明治の野球はこんなだった!

明治の野球
アメリカでメジャーリーグが創設されたのは1871(明治4)年
日本に輸入されたのはいつだろう。
これがなんと、2年後なんです。

開成学校(東京大学の前身のひとつ)に赴任したアメリカ人教師が生徒たちに教えたのが始まり。
さあ、何て言われていたでしょう。

打球鬼ごっこ

うん、可愛い。

瞬く間に全国に広まっていく。
大学野球もほぼ同時期。

さらに5年後には、東京で「新橋アスレチック倶楽部」というチームが結成される。
汽車の製造技術を学ぶために渡米していた、新橋鉄道局の技師、平岡熙(ひろし)がバット1本とボール3個を土産に帰国。
駅員達に
こんな面白いのあるんだけどやらない?

陸蒸気(おかじょうき)ですね。ああ明治っぽい。

同時期に何とあの人も

徳川16代目の徳川家達(いえさと)
徳川慶喜の次。
「徳川ヘラクレス倶楽部」
というチームを結成する
新橋アスレチック倶楽部のライバルになります。

当時、グローブは超高級品なので
ピッチャー、キャッチャー、ファースト以外は素手で守っていた。

でも大丈夫。
強い打球なんて飛びませんので。

ルール
最初の頃はルールだって試行錯誤段階。

今はボール4つでファーボールですけど
当時は9個までで出塁。
ピッチャーは下手無げしかダメ

何をもってボールとするかも
全然違っていた。
バッターが、高めでお願い
と言ったら高めに投げなきゃダメ
違うところにしか行かなかったらボール

こんなイメージしません?

ちっちゃな子供にお父さんが公園で打つ練習をしてあげる
下手投げでゆっくりしたボールを打ちやすそうな所に

お父さん、今のじゃ高くて打てないよ
ごめんごめん、今度ちゃんと真ん中投げるからね
幸せな親子。

おそらく最初の野球は勝負とかあまりどうでも良くて
楽しきゃいいじゃん。

野球用語
獲者 第一基人 場中 短遮
これは、野球用語の日本語訳

1.それぞれ何でしょう

2.そして、これらはある人が考えた訳なんですけど、さあ誰でしょう。

この人、野球好きで有名なので当たるかも。

実はこの人が訳した用語で今も使われているのがあります。
バッター 打者
ランナー 走者
フライ  飛球
デッドボール 死球
ストレート 直球

文学を通じて野球の普及に貢献した、として
野球殿堂入りも果たしています。

雅号というのも持っているんだけど
幼名の升(のぼる)をもじって「野球(のぼーる)」
ちなみに野球と訳したのはこの人じゃなく、
中馬庚(ちゅうまかのえ)という人です

最後のヒントね

まり投げて 見たき広場や 春の草
 
 
 
 
 
 


1.それぞれは
獲者 キャッチャー
第一基人 ファースト
場中 センター
短遮 ショート

2.正岡子規です

[昭和歌謡]8 学生時代

昭和ヒット曲全147曲の信実シリーズです。

学生時代
ペギー葉山
作詞作曲·平岡精二
1964年

♪つたのからまるチャペルで祈りを捧げた日。
夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば
なつかしい友の顔が一人一人浮かぶ
重い鞄を抱えて通ったあの道

青山学院女子高等部(現·青山学院高等部)の学生だった
ペギー葉山をモデルにした歌で、100万枚の大ヒットになった。
「つたのからまるチャペル」は青学の礼拝堂のことだが、
現在は建て替えられて蔦はない。
「重いカバンを抱えて通ったあの道」とは、青学に通じる渋谷の宮益坂のこと。

思い出
歌ったなあ、この歌
何回歌ったろう。
10回20回じゃきかないかもしれない
何かの拍子にふと頭に浮かんでそのまま口ずさむ

学生時代の思い出
ブログ見返してみたんですが、
なんと、私まだ、学生時代の話をしてなかったんですね。
驚いた。びっくりした。
こんな特殊な世界の話をまだしていなかったとは。
話せば長くなります。
しばし、ご勘弁。

高校の時、落ちこぼれていたんです。
その時の楽しいエピソードはこちら
こちら
こちら
こちら
一番好きだった科目が公民(政治経済)
その中でも憲法が大好きだった。

法律を仕事にしたいなあ
弁護士なのかな
ちゅうことは司法試験。
となれば、中央大学法学部
当時、司法試験合格者数で東大と争っていた。

力試し全国模試とか受けると常にE
志望校を変更しましょう。
うるさいわっ

猛勉強、かつ、特殊なやり方で奇跡の見事合格。

さあ、司法試験。

東大って、ご存じの通り天才しかいませんので
そこそこ勉強すれば、現役で合格しちゃったりするんですが
中大生はそうはいかない。

ちなみに、ここでいう現役とは、大学4年間のうちでということ。

司法試験って、アホみたいに難しいので
現役での合格ってあんまりないんです。
卒業してもずっと勉強し続け、何年か後に合格できればすごいひと。
いくら何年も勉強したところでダメな場合はやっぱりダメ。
その場合にはもうかたわになっちゃいますね。

さあ、中大生。
頭がおかしいよってくらい勉強します。

司法試験受験のためのサークルが10個以上あります。
研究室と呼ばれています。
もちろんチャラチャラしたところは一切なく
どれも長い長い歴史と伝統を持ったサークルです。
そのサークルに入るのにテストに受かる必要があります。
超狭き門。
猛勉強が必要です。

私はその内のひとつに何とか合格。

そうするとどうなるか。
研究室の中に机がもらえます。
そこで、自分で勉強していいですよ。
ただ、それだけ。
たまに、休憩室で休んでいる先輩を捕まえて
質問することは出来るけど
さあ、一緒に勉強しましょうね
ってことは全くない。

そして、入館証がもらえるという特権
普通、学生は日曜日とかの休みだと学内に入れないんだけど
研究室に入って、入館証を持っていると
ガードマンが入れてくれる。

休みだろうがなんだろうが
研究室の自分の机で、ずっと勉強してもいい。
正月なんて関係無い。
365日。

その365日の間
寝ているとき、風呂入っているとき、食事しているとき、通学中を除いては
ずっと司法試験の勉強をしている。
テレビも音楽聞くことも、友達や彼女と遊びに行くことも一切ない
たまには息抜き、なんて概念はない。
キャンパスライフ?
ええっと、なんでしたっけそれ。

それが、何年も続く。
現役合格はほぼないので
4年どころじゃない。

世の中のありとあらゆるものから
置いていかれる。
「法律の事」以外はどんどん退化していく。

私の場合、4年目に差し掛かって分かってしまった。
私の頭じゃ何年やっても無理なものは無理。

分かったら一刻も早く
人間としての生活に戻ろう。

ニュース
おかしいと思いませんか
そんなおかしな生活を何年もやって
人間としておかしくなっちゃった人が
人を裁いているんです。

社会に出て何年もして
あるニュースを目にしました
村井判事補逮捕
少女売春で捕まる。

仰天しました。
私がいた研究室の2年先輩。
超が付くほど真面目でした。
あまり喋らず、いつもニコニコしていただけの印象。
悪いことをとても出来るようなタイプではない。
善人を絵に書いたような人。

新聞の一面に顔写真が載っていた。
全くそのままの顔。

少女売春か
分かる。
もちろん、当時、そんなカケラもなかった。

おかしくなっちゃったんだ。

その後、司法試験制度は見直しされたと聞いています。
その内容は全く知らないんですが
そうだろうなとは思います。
ああ良かった。

あまりにも異常なことって改善しないとね。

猛烈に勉強しないと受からない。
そこまでは分かる
日本の法律の運用に携わる人なんだから

でも、異常に勉強しないと受からない
になっちゃってましたから。

歌ってみました
お恥ずかしいですが、歌ってみました。
学生時代(でーこん)

[百人一首]50 君がため~ 明日をも知れぬ命

君がため 惜しからざりし 命さへ
ながくもがなと 思ひけるかな

あなたのためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命でさえ、
会えた今となっては、
できるだけ長くありたいと思うようになりました

藤原義孝
藤原義孝(ふじわらのよしたか)は摂政・藤原伊尹(これただ)の三男。
歌才と美貌は父ゆずりであったらしい。百人一首には父とならんで入れられている
45番・謙徳公
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

伊尹は時の帝、円融天皇の伯父であり、東宮(のちの花山帝)の祖父であり、摂政
大鏡には「世の中は我が御心にかなはぬ事なく」
なんだかすごい!

その御曹司
母方の家柄もすごくいい
一つ年上の兄、挙賢(たかかた)は少将になっていて、弟の義孝が入れ替わりで少将になる
兄が前少将、弟が後少将と呼ばれた。

家柄、仕事、財産。全てバッチリ。
それに加えて超イケメン
歌もいけてる。
あかん、そんなに揃ったら。
モテない筈がない。
性格は悪いやろ

ところが、一番良いところが性格
モテモテのくせに、うわついたところがない。
仏教に熱中していて、ひたすら信心。

あるとき、そんな義孝が何を思ったか、いわゆる女子会の席にぶらりと立ち寄った。
女たちは大興奮。義孝もいつになく饒舌に楽しくおしゃべり。
じゃあ遅くなったのでこれで

あら帰っちゃうの?
女たち、残念!

どこに行くんだろう。
気になって仕方ないので尾行します。

朔平門から出、法華経を尊く誦じつつ、大宮を北へ、氏寺の世尊寺に着いた。
東の対の軒の紅梅の下に立ち、「滅罪生善 往生極楽」と西に向かって何度も拝んでいた

そう来ましたか

その時の月明かりの下でのお姿
美しかったわぁ
と、後々までずっと語り継がれる。


そんな百点満点のはずの義孝が、どうしても手に入らなかったのが健康。
天延二年(974年)
二十一歳の若さで亡くなってしまいます。
何と同じ日にお兄さんも亡くなるという悲しい結末です。
これを聞いて、この歌から受ける印象が大きく変わりました。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のエピソードを聞いたときの印象と一緒かな。

雨ニモマケズって、それまでは頑張り屋さんの詩かなと思っていた。
戦時中に、そういう使われ方もしたらしい。
でも全く逆だった。
結核で亡くなる二年前
何も食べられなくなって、立てなくなって
風が吹いても立っていられるようになったらどんなに良いだろう
昔のように玄米四合食べられたら
そんな病気を治したい、こんなことをしたいリストを単に手帳に書いた
全く発表予定のないもの
詩ではない。
それが分かって、一行ずつかみしめながら読んだら
無茶苦茶感動します。
今度、ちゃんとこれについて書きますね

話を戻します。

君に会いたい
会えるなら死んでも良い
でも会えちゃった。
前言撤回
やっぱり何度も会いたいから長生きしたい。

うん、ありがちありがち

そう思ってた。

流れとしてはそうかも知れないけど
それぞれの重みが全く違ってたんですね。

本当に死に直面していた。
死ぬまでにせめて一度だけでも
もし会えたらもう思い残すことはない。
そう思っていたなあ
会えた今でも気持ちは変わらない。
次に会えるときまでに生きていられるだろうか
何とかならんのか、この命
会いたい
それだけ
ああ、やっぱり生きていたいよ。

もがな、の願望の三文字
たった三文字だけどこんな気持ちが全部つまっている気がする。

[徳川名参謀]5 綱吉→柳沢吉保

徳川15代闇将軍シリーズです。

あの5代綱吉に対する名参謀になります
マザコンの犬公方、綱吉も読んでね

柳沢吉保
柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が 側用人として登用されたのは 1688年の暮れも押し迫る頃 東山天皇の即位に合わせて元禄と改善されて間もなくの頃でした。

側用人
柳沢吉保を語るにおいては、側用人(そばようにん)とは何かから。

側用人は将軍の側にいて身の回りの世話を見る
その中で重要な役割が将軍と老中の取り次ぎ
通訳みたいなイメージ
将軍には老中たりとも直接話が出来ない。
側用人を介して話をする。

ということなので、本来政治に携わる訳ではない。

ただ、吉宗等の一部の例外を除いて、将軍は政治は完全に任せていた変わりに
人事ではどの将軍も独自性を発揮している。
そこぐらいは自分のカラーを出したい。

例えば、3代家光のとき
本来松平は徳川の親戚(親藩)側なので
老中とかの政治は携わっちゃだめで、譜代大名がやる
ところが、自分の世話を産まれたときからずっと見てくれていた松平信綱を起用。
例外を作っちゃった。

4代家綱は、自分のカラーを出すため、原則に戻した。
まだ11歳の時に将軍になったから、そのまま体制は踏襲せざるを得なかったけど
もうひとり足して、一番上に持っていったのが酒井忠清。

さあ、5代綱吉はどうやってカラーを出す?
そうです。
例外、原則と来たから、また例外。

さらに、5代綱吉には特殊事情があった。
綱吉が将軍になったこと自体例外。

子へ子へとの歴史が途絶えたんです。
4代家綱にとうとう最後まで子供が出来なかった。
家綱の弟、四男だったので外(館林藩)に出されていたのが綱吉。
次男三男が死んでしまっていたので仕方なく、綱吉に回ってきた。

アウェーの江戸でやってかないといけない。
館林の時からの気心の知れた者を連れていき
側用人にした。

老中じゃないんだから良いよね。

とりあえずは、何とか理由をつけて、超実力者、酒井忠清を追い出す。
そして、本来政治に関係無いはずの側用人に、なし崩し的に政治をやらせていく。

老中としては頭に来る存在。
自分の意見が通らなければ
ほんとにあいつはちゃんと伝えてくれているのかなあ。

かといって、喧嘩したら
何も伝えてくれなくなる可能性だってある

老中って、結構やることは専門分野ごとに分かれちゃっているから
総合的に情報を得ているのは、将軍以外には側用人しかいない。

良いのは、仕事が出来るって分かって起用できること。
館林藩主時代の時から、見ていて選りすぐりの人材を持ってきた。
館林藩主時代に家老を務めていた牧野成貞。
そして、柳沢吉保。

ちょっとずるいよね、って気もするけど
側用人って、身分や家柄に恵まれない人を起用できる。
完全なる実力主義。
綱吉って、考え方がしっかりしているから
その事を理解してやったんだと思う。
柳沢吉保が側用人に登用されたのは31歳
複数いる側用人の中で、完璧に実力を発揮したのが柳沢吉保だった。

側用人に就任すると同時に、1万石の大名に取り立てられ、
最後には15万石の大大名になっている。

どれだけすごい実力を持ち、将軍に信頼されていたかは、名前で分かる。
吉保は、当初「保明」だった。
綱吉治世晚期の1701年になって綱吉の偏諱(へんき)を受けて、「吉保」となった。
「吉」使って良いよ。
ありがたきしあわせ。

将軍の偏諱を受けるってことは、御三家や有力外様大名家などかなりの家柄でないと無理。
異例中の異例です。

イメージ
あれ? そんなにすごいの?
イメージと違うなあ と思われる方もおられるかも。

柳沢吉保って、どちらかというと、悪いイメージを持たれることの方が多い。

ひとつには、元々嫌われ役の役回りだということ。

越後騒動というお家騒動があるんだけど間に入った吉保
結局、どういう解決をしようが、もめ事である以上、どっちかが損をする
あいつのせいで、になる
さらに柳沢騒動というのもあって、嫌われ度が増していく。

ふたつには、綱吉の悪いイメージのとばっちり

ことあるごとに言っているんだけど、もう一回言わせてください。
生類憐れみの令は、基本理念はこれ以上ないってぐらい素晴らしい。
運用する側とされる側が間違っただけ。

武士の世の中ですよ。
人を何人殺したかで誉められる身分。

なのに、
人は殺しちゃいけません
という令を出す。

自己否定も甚だしい。
国会議員が議員定数削減法案を出すようなもの。

その前に、保科正之が天守閣を再建しないと平和宣言したのを受けての最後のとどめ
そのおかげで、260年という歴史上類を見ない平和な長期政権が続いた。
切り捨て御免も禁止されるから、
それ以降、刀って抜いちゃいけませんから

誰も銃を持っていない、世界にも類を見ない平和な日本は
綱吉のお陰だと思っています。

人を殺しちゃいけません。
動物もね。

罰則があるわけでもなかった。

最後の一文に食いつく人がいた
ええっ?そっち?

やってられるかい、って動物を殺してさらした。
そうなると、取り締まる側も、罰則をもうけざるを得ない

そうすると、あちこちでなんじゃそりゃあと挑発行動
罰則もより広範囲に強化。
繰り返されて、あんなふうになっちゃう。

天下の悪法か
ああ悔しい
基本理念を見て欲しい。
まあ、途中で、綱吉がストップされられたはずで
エスカレートするのをほおっておいた綱吉は悪いでしょ、と言われれば
おっしゃるとおり、なんですけどね。

忠臣蔵
決定的に柳沢吉保を悪役イメージにしたのが忠臣蔵。
お芝居になると勧善懲悪の方が分かりやすいですからね。
もちろんひとつの「悪」は吉良ですけど
基本、忠臣蔵は政府批判だから人気が出た。

喧嘩両成敗なはずなのに、一方だけ切腹はおかしいでしょうって

綱吉にしてみれば、正直、見せしめ的要素が強い。

だからあ
刀抜いちゃダメって言ったよね。

色々ぼやかして、取り締まりを受けないようにお芝居はできている。
まあ、だれのことを言っているかは分かるよね。
直接将軍を悪く書くのはいくらなんでも。
変わりになって悪役が政府の闇将軍。
ああ、柳沢吉保だなって。

あそこまで人気出ちゃうとね
それ以降、あの時代の時代劇は、決まって悪役が柳沢吉保。

六義園
ウォーキング好きの私としては
柳沢吉保大好きってのが、六義園の存在。

ただ、仕事が出来て、悪役も買って出て
だけじゃなく
風流をめでる心の持ち主。

見事な庭園です。


綱吉が亡くなって、家宣にバトンタッチ。

柳沢吉保とすると
「将軍は人事で自分のカラーを出す」大原則をようく分かっている。
自分はそのお陰で家柄もないのに重用されたわけですから。

嫌われているのも知っている。
生類憐れみの令もある

まずいっ
先手を打とう。

早々と全てを捨てて引退しちゃいます。

セーフ

多少の不利益を被っただけで、最悪の事態にはいたらない。

その後、六義園でゆったり、のんびり
お疲れさまでした。