[百人一首]50 君がため~ 明日をも知れぬ命

君がため 惜しからざりし 命さへ
ながくもがなと 思ひけるかな

あなたのためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命でさえ、
会えた今となっては、
できるだけ長くありたいと思うようになりました

藤原義孝
藤原義孝(ふじわらのよしたか)は摂政・藤原伊尹(これただ)の三男。
歌才と美貌は父ゆずりであったらしい。百人一首には父とならんで入れられている
45番・謙徳公
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

伊尹は時の帝、円融天皇の伯父であり、東宮(のちの花山帝)の祖父であり、摂政
大鏡には「世の中は我が御心にかなはぬ事なく」
なんだかすごい!

その御曹司
母方の家柄もすごくいい
一つ年上の兄、挙賢(たかかた)は少将になっていて、弟の義孝が入れ替わりで少将になる
兄が前少将、弟が後少将と呼ばれた。

家柄、仕事、財産。全てバッチリ。
それに加えて超イケメン
歌もいけてる。
あかん、そんなに揃ったら。
モテない筈がない。
性格は悪いやろ

ところが、一番良いところが性格
モテモテのくせに、うわついたところがない。
仏教に熱中していて、ひたすら信心。

あるとき、そんな義孝が何を思ったか、いわゆる女子会の席にぶらりと立ち寄った。
女たちは大興奮。義孝もいつになく饒舌に楽しくおしゃべり。
じゃあ遅くなったのでこれで

あら帰っちゃうの?
女たち、残念!

どこに行くんだろう。
気になって仕方ないので尾行します。

朔平門から出、法華経を尊く誦じつつ、大宮を北へ、氏寺の世尊寺に着いた。
東の対の軒の紅梅の下に立ち、「滅罪生善 往生極楽」と西に向かって何度も拝んでいた

そう来ましたか

その時の月明かりの下でのお姿
美しかったわぁ
と、後々までずっと語り継がれる。


そんな百点満点のはずの義孝が、どうしても手に入らなかったのが健康。
天延二年(974年)
二十一歳の若さで亡くなってしまいます。
何と同じ日にお兄さんも亡くなるという悲しい結末です。
これを聞いて、この歌から受ける印象が大きく変わりました。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のエピソードを聞いたときの印象と一緒かな。

雨ニモマケズって、それまでは頑張り屋さんの詩かなと思っていた。
戦時中に、そういう使われ方もしたらしい。
でも全く逆だった。
結核で亡くなる二年前
何も食べられなくなって、立てなくなって
風が吹いても立っていられるようになったらどんなに良いだろう
昔のように玄米四合食べられたら
そんな病気を治したい、こんなことをしたいリストを単に手帳に書いた
全く発表予定のないもの
詩ではない。
それが分かって、一行ずつかみしめながら読んだら
無茶苦茶感動します。
今度、ちゃんとこれについて書きますね

話を戻します。

君に会いたい
会えるなら死んでも良い
でも会えちゃった。
前言撤回
やっぱり何度も会いたいから長生きしたい。

うん、ありがちありがち

そう思ってた。

流れとしてはそうかも知れないけど
それぞれの重みが全く違ってたんですね。

本当に死に直面していた。
死ぬまでにせめて一度だけでも
もし会えたらもう思い残すことはない。
そう思っていたなあ
会えた今でも気持ちは変わらない。
次に会えるときまでに生きていられるだろうか
何とかならんのか、この命
会いたい
それだけ
ああ、やっぱり生きていたいよ。

もがな、の願望の三文字
たった三文字だけどこんな気持ちが全部つまっている気がする。

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