新江戸百景巡り。猿江御材木蔵と鎧の渡し

一之江名主屋敷に行ってきました。
の続きです。

一之江名主屋敷を見終わって、ちょうどお昼
近くのファミレス、サイゼリアに立ち寄ってお食事。

雨降っていないし、もうちょっと時間あるなあ
新江戸百景巡りの中で残っているのはあと3つ
猿江御材木蔵
鎧の渡し
志村一里塚

猿江御材木蔵というのが意外に近かった
同じ、都営新宿線、住吉
乗換案内で見ると十分
よっしゃ、ゴー

猿江御材木蔵
一之江名主屋敷の辺りは、田島図書(たじまずしょ)が新田開発しました。
この深川の住吉辺りは、深川八郎右衛門(ふかがわはちろうえもん)

同じくぐっちゃぐちゃでどうしようもなかった土地を開墾

家康が視察にやって来ました。

ここは、何ていうところなんじゃ?

地名か?地名なんてまだない。
そもそも誰も住んでなかった。

さようか
しかして、あなたの名前は?
深川八郎右衛門

よし、じゃあここは、深川だ
決定

ということで、田島家同様、深川家が代々深川の27町の名主になる

残念ながら、一之江名主屋敷のような、名主屋敷は残っていない。

理由があるんです。

深川家当主は代々深川八郎右衛門を名乗ります。
その7代目深川八郎右衛門の時、事件が起きます。
ルールを犯す悪いことを清住町の大達孫兵衛なるものがしてしまった。

幕府より深川八郎右衛門が呼び出される

これこれこういうことが起きているらしいが、どうなっとるのだ。

(えっ、知らなんだ。誰かがそんなことしたのか。
でも、そもそもそれを知らなかった私が悪いな
ファミリーの罪は私の罪)

申し訳ございません。
何の申し開きも出来ません。
全ては私の責任でやらせたことでございます。

全ての罪をかぶり、深川八郎右衛門一人が牢屋へ
そのまま獄中死
名門深川家は家名断絶になります。

驚いたのは町民たち
深川八郎右衛門さんはそんなお人やない
本当は許されていないが頼み込んで、遺体を引き取る。
猿江泉養寺で手厚く供養します。

毎年毎年、命日には27町が費用を分担して供養。
今でも、11月3日には、大施餓鬼法会というのが行われているそうです。

そして、深川が一之江地域とちょっと違うのが材木です。

江戸という町はとても特殊
その特徴の一つが20回以上発生した大火
江戸の6割以上を焼き付くした明暦の大火をはじめとし
3年に一度は、江戸のどこかで複数の町が燃える火事が起きています。

どうせ貯め込んだって、いつか全財産持っていかれる
江戸庶民は、共通の体験をしているので
宵越しの金は持たない
人生楽しんだもん勝ちという江戸っ子の人生観が形成されます。

すると、大火はどうとらえられるか

建築に携わる数多くの人達の特需

火事と喧嘩は江戸の華、というのはやけになって言っている訳じゃなく
本当にそう思っています。
どうも、それだけ大火が多い理由は、放火がかなりある
そろそろ火事が起きてくれないと商売上がったり、的な感覚。

家の材料は全て木材ですから
紀伊国屋文左衛門とかの大富豪は木材商です。

深川の地は、海に近く木材を各地から運び入れて貯木しておくのに格好の場所。

猿江御材木蔵はそんな貯木場です。

跡地の碑です

江戸のウォーキングやっていると、
まとまった土地に庭園があったりすると
ここは何藩の武家屋敷だったんだろうと考えるのが習慣になっている。

以前、同じく深川の木場公園に行ったとき、あまりの広大さにビックリして
いったい全体、こんな広大な土地って何藩?って調べたら
武家屋敷じゃなく、貯木場だった

なるほど!
墨田川より東側は、広大な土地は貯木場なのね

ということで、ここにも広大な公園
猿江恩賜公園です。




貯木池の名残の池

当時は、広大な公園の全部とさらにその周辺の至るところにこういった池があって
角材がびっしり浮かんでいて
角乗りとかしてたんだろうなあ。

縦横直角に運河が張り巡らされ
江戸中心地に材木を運ぶ。

横の大きいのが、横大川、横十間川、
縦が、小名木川、竪川

墨田川より東は道路が広くて全部直角なのはその名残でしょう。

鎧(よろい)の渡し
あと2つかあ

欲が出ました。
調べて見ると、半蔵門線で、住吉から水天宮前までたったの2駅

行けぇっ

水天宮から、鎧橋へ


鎧橋が出来る前は、鎧の渡しだった

なぜ鎧なのかというと
源頼義が東北遠征へ行く際、この地で暴風雨に遭い、
この淵に鎧を沈めて龍神に祈ったところ、
風雨が止んで川を渡ることができたから。

この辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになり、
ここにできた渡し場は「鎧の渡し」

ここからすぐのところに兜神社があります。
行ってみましょう。

兜神社

境内に安置されている兜岩は、
前九年の役(1050年)に源義家が東征のみぎり
この岩に願を懸けて戦勝を祈願した
これかな

この辺りの地名、兜町の地名の由来です。

兜だったり鎧だったりややこしいですね。

確か、平将門も関係しているはず

平将門の兜もやっぱりここのようです。
となると、平将門の鎧は鎧の渡しの場所?
と思ったんですが
残念!
新宿の方にある鎧神社です。

さあ、これで、新江戸百景巡りもリーチがかかりました。

志村一里塚を残すのみです。

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