一之江名主屋敷に行ってきました。

週末です。
新江戸百景巡りクリアへ向けてゴー

あと4つ
一之江名主屋敷
猿江御材木蔵
鎧の渡し
志村一里塚

一之江名主屋敷(いちのえなぬしやしき)
江戸川区です。
都心より西側の住民としては、あまり行かない方
言い方を変えると、とても新鮮

都営新宿線の瑞江が最寄り駅です。
初めて降り立ちます。
ワクワク

駅員さんに聞いてみたら、
バスで行かれた方が良いですよ

でも歩けそうな感じがしたので、
結局歩いちゃいました。

天気予報では、
台風6号上陸なので
関東でも不安定な天気でしょう

歩いていると突然雨が振りだした。
来たな来たな
傘をさして頑張るぞっ

着きました。


着いたすぐ後に雨は止みました。

名主の田島家ってどういう人だったんですか?

元々は大阪の人で、堀田図書(ほったずしょ)という豊臣秀吉の家臣だったんです。
でも、関が原の戦いで負けちゃって
江戸の方に流れてきて、田島家という百姓の家に厄介になって、この土地に住み着く。
姓も田島に変えたんです。

この辺りの土地は、ほとんど、田島家が開発しました。
湿地帯で、ちょっと雨が降ると水浸しのどうにも使えない土地
それを開発してくれるんならと
名主としてくれる。
元禄以降ずっと代々田島家が名主となるんです。

元禄からって随分古いですね。5代綱吉のころですもんね
少し前に板橋区の、旧粕谷家住宅に行ってきたんですけど
享保でした。8代吉宗でした。

ここも粕谷家同様、移築ではなく、最近まで住んでおられて
今はお隣の敷地に住んでおられる。

移築ではない茅葺き屋根の民家は、
東京23区広しと言えども、板橋区の旧粕谷家とここのみ。

かなり大きな家でした。

庭もとても立派


庭を囲んでお堀もあります。

このお堀の使い方としては、お城とかのお堀的に使ったのか
通常は空堀にしておいて、水害の時に、水が流れ込むようにしたのか
正確には分からないようです。

その向こうに資料室がありました。

農業や、茅葺きやで使う道具とかを展示してあります。

2~3年前に出来たばかりらしくてとても綺麗。

一番感動したのがこれ

「定免年季開けに付願書」という文書。

今ちょうど、「百姓の江戸時代」っていう本を読んでいて
定免法(じょうめんほう)のところだった。

定免法って、8代将軍吉宗の寛政の改革の一環
それまで、検見法(けみほう)といって、毎年毎年収穫前に、お役人が見に来て
今年はこれくらい収穫出来そうだから年貢はこれだけねと決めていた。
それを過去5年とか10年とかの平均で決めるようにした。

ただ、全国一律、はいこれから定免法、ってなったわけじゃなく
地域によって使い分けたり
定免法にして、また検見法に戻したりと色々。

教科書的には、年貢をより多く取るための改定と言われているんだけど
「百姓の江戸時代」の作者は、むしろ逆じゃないかと。

色んな古文書を元に証明
例えば、佐渡が島であったのは
定免法から検見法に戻そうと言うときに
農民側から、戻さないで下さいとの嘆願書。

もし、検見法が正しく運用されるなら
理論的には検見法の方が正しく公平になるんでしょうが
見て回るお役人は田んぼには行かず、接待ばかり
どんどんエスカレートし、百姓もやってられません

もうひとつこの本が言っているのは
一般的なイメージとして、百姓たちは、ただただ強いたげられていたように思われているが
それも誤解

先程の接待漬けの事実がなぜ分かったかというと
百姓から糾弾する文書が出ていて
このお役人は、それによってクビになっています。

定免法の細かく具体的な方法についても
かなり口出ししていって、結構そのとおりになったりしています。

本に書いてあることなので
へえぇ、ぐらいだったけど
佐渡が島まで行かなくても、ここにあるこの書類は解説を見ると同じ趣旨のものなんじゃないだろうか

そんな風に思ってじぃーっと眺めていると
掃除のおじさんが近づいてきた。

お宅さんは、この難しい書類が読めるのかね

いやぁ全然

何が書いてあるんだかさっぱり分からん。

でも、おそらくだけどこの書類すごいものかも知れませんよ。
定免法っていう吉宗の決めたことが、正しかったと示すものかも

ほう、吉宗かい

暴れん坊将軍ね
私も全然読めないんですけどね

ああ、興奮した。

このあとも続きます。
続きは明日ね

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