[建武]9 生き延びてくれ

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし
[建武]6 足利尊氏と新田義貞。えっ私?なんでまた
[建武]7 足利新田、そのままにしておけ
[建武]8 後醍醐天皇ピーンチ。えっ、そりゃまた。
の続きです。

楠木正成(くすのきまさしげ)
後醍醐天皇・新田義貞・楠木正成軍は、足利軍を蹴散らし、足利軍は九州へ落ち延びます。
追いかけて、壊滅させれば良かったのですが
新田義貞が病気で立てなくなり、一転大ピンチ
楠木正成は、後醍醐天皇に、新田義貞を切って、足利尊氏と結ぶ事を提案したところまででした。

後醍醐天皇は、やはり新田義貞を切れなかった。

分かりました。天皇がそうおっしゃるのなら。

楠木正成もあっさり引き下がります。

やはり新田義貞が動けないのは大きく
その期間に、九州で足利尊氏がどんどん勢力を拡大していきます。

ようやく新田義貞の病気が癒え、動けるようになったのですが、時遅し

足利軍。
機は熟した。
いざ、京都奪還へ
大軍を率い、ズンズンズン

数で勝る足利軍を迎え撃つ、新田・楠木軍

楠木正成は戦術に長けているので、後醍醐天皇に進言
天皇に一時期京都から別のところに逃げておいていただいて
新田・楠木で京都を守る
以前も、ごく少人数で守り抜いた実績があるので、勝算あり

ところが、取り巻きの公家たちがいらんこと言います。
帝に京都を離れろとはとんでもない
こちらから出向いてやっつけてこい。

残念ながら、位は向こうの方がずいぶん高い
どうにもなりません。

普通にやりあったら、数で圧倒されているので勝てる訳ありません。

玉砕あるのみ

楠木正成は新田義貞と別れの宴
世を徹し、腹を割って話し合います

正成は、いきさつを明かします。
実は、お前さんが病気の時、
わしは、新田を切って、足利と結ぶべしと提案したんだよ
結局はその提案は入れられなかったんだけけどね
申し訳なかった。

そんな事があったんですか
それを私に明かしてくれたんですね。
ありがとう。
当然の提案ですよ。私があなただったら同じことを提案したでしょう。
最後にこうやってあなたと飲めて良かった。

それでも私をかってくれた帝に報いるため
私も堂々と討ち死にするつもりです。

ちょっと待ってくれ
そんなつもりで今飲んでいる訳じゃない。
私は、局地戦の人間
あなたはそうじゃない。大局を見れる人だ
壊滅的になっても何度も復活してきた。
あなたにはそういうしぶとさもある
玉砕は私だけで十分だ
なんとか生き延びて欲しい
そして、再度立て直して、足利に挑んで欲しい

湊川の戦い
湊川の戦いが始まります。
楠木正成は足利直義軍に対峙

新田義貞は、足利尊氏が船でやって来るので、瀬戸内海に突き出た和田岬に布陣
来いっ

ところが、足利尊氏軍は予想外の作戦
二手に分かれ、半分は直義軍に合流すべく手前で上陸

いかん、そう来たか
正成を助けに行かねば。

とはいえ、半分でも、新田軍より数で勝る
そうそう突破出来ません。

正成ーっ。持ちこたえろよ。必ずそちらに向かう。

でもそれどころじゃなくどんどん形勢が不利に

いよいよダメか。
自刃の時が来たのか。

そこで昨日の言葉を思い出します。
「生き延びて欲しい」

すまん。正成
助けてやれなんだ。
わしは
生き延びる道を選ばせてもらう。

退却ーっ

一方の楠木正成
僅かな軍勢でも、神出鬼没に立ち回る
でも、さらにもう一軍に挟み討ちにされ、もはやこれまで。

「7度死しても生まれ変わり、朝敵を滅ぼして国に報いて見せよう」と
「七生報国」を誓って、弟の楠木正季(まさすえ)らと自刃しました

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[天皇]北1 光厳天皇。ああ、ややこしい

そろそろ建武シリーズも追い付いて来たので天皇シリーズ再開

光厳天皇(こうごん)
北朝1(持明院統)

第九十六代後醍醐天皇のあと、北朝一代としてこの天皇が即位する。

この天皇のお父さんは、93代の後伏見天皇。
その第1皇子であり、北朝1代の天皇として数えられている。

持明院統と大覚寺統の両統迭立というのがありました。
交互に天皇を立てましょうという約束
従って、大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子になった
後醍醐天皇は、持明院統には渡したくなくて、約束を守ろうと介入してくる幕府を倒そうとする
でも、失敗して隠岐の島に流罪になってしまう。

となると、自然に、皇太子である光厳天皇の即位となる
大覚寺統の後醍醐天皇がずっと大覚寺統という目論見で事を起こし、失敗した

普通に考えると、
勝手に自滅してくれてありがとう
おかげで、今後はずっと持明院統で行かさせてもらいます。

光厳天皇は次の年、年号を正慶と改めた

ところが、失敗のままではなかった
後醍醐、挙兵

足利尊氏、楠木正成、新田義貞が追随

まずい、逃げろ
でも捕まっちゃいました。

後醍醐天皇、統幕に成功し復活

残念。光厳天皇廃位させられちゃいました。

ということは?
当然その後は、大覚寺統でずっと

何なんでしょうね。そうはならなかった。

味方であったはずの足利尊氏が反乱
足利尊氏は、光厳天皇を光厳院とし
院政の院宣を出してもらい
こっちも朝敵じゃないんだからね作戦

ややこしいわ
そろそろどっちかに決めてよ
後で、歴史検定受ける人の事も考えてよね

足利尊氏、天下取ったぞ

ようやく、持明院統側で決まり?

ところがところが
後醍醐天皇、負け切ってくれない

吉野の地で
そっちは天皇って言っているようですが
こっちこそほんとの天皇ですからね宣言

どれだけ話をややこしくするのよ

天皇家は万世一系だったじゃないの

南北朝時代の始まりでございます。
正確に言うと、もうちょこっとあれこれあった後なのですが。

北ベトナムと南ベトナム
北朝鮮と韓国の如し

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[歳時記]2/22 猫の日

2/22
1987(昭和62)年、「猫の日制定委員会」が「猫の記念日」を募集したところ、
全国から9000通近い応募が殺到。
その中でダントツ1位だったのが「ニャン、ニャン、ニャン」をもじった2月22日。
そこで、この日が「猫の日」に決まった。

ちなみに2位は
「ニャー」の2月8日、3位は「ニャーゴ」の2月5日だった。

ただし、外国語では、猫の鳴き声はミュー(英語)、ミャウ(仏・独・露語)などが一般的。
この記念日は日本でしか通じないかも。

さて、昔から猫好きだった日本人だが、江戸時代中期以降になると、
とくに短い尾の猫を好むようになった。
浮世絵でも喜多川歌麿以降になると短い尾の猫がたくさん登場。

なかでも歌川国芳の作品は短い尾の猫だらけだ。

「牛蒡尻(ゴボウジリ)」などという方言で呼ばれた

牛蒡尻(ごぼうじり)の猫って聞くと、ゴボウが細くて長いので
尻尾が長いと思いがちですが
「五分尻(ゴブジリ)」がなまったんだと思われます。

逆に長い尾はヘビのようだと気味悪がられた。
年をとると先が二股に裂けて化けると信じられていたため、
尾を切り取ってしまう習慣さえあった。

長女
長女の嫁ぎ先のお父さんが正月あけすぐに亡くなりましたが
お母さんは、淋しくなって大変。
すぐに猫を飼い出したそうです。

そうなると、長女もこうしちゃおれないと
週3で向こうの家に通っているとの事
良い口実でコミュニケーションいっぱい取って、可愛がってもらえるとありがたいです。

可愛い猫の画像を集めてみました。



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[ことば日本史] 転んでもただでは起きない。

「ことば日本史」平安時代から

受領(ずりょう)
平安時代の地方の政治は、受領(ずりょう)によって行なわれていた。

受領とは、平安時代以降の県知事さんみたいな感じ。
律令制下では、国司四等官[長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)]がそれぞれ国務に関する責任を分担していたのだが、
九世紀に入るとその体制が崩れ、実際に赴任した国司のうちの最上席者、
すなわち受領に権限が集中してゆくようになった。

平安時代後半以降には、受領はふだんは任国にはおらず、
目代を派遣して国務を執り行わせ、
自分はごく短期間だけ国に行くというような状態となる。

このあたりの何度か変わっていく地方政治の仕組み
歴史検定の時、ずいぶんやったなあ

転んでもただでは起きない
信濃守(しなののかみ)藤原陳忠(のぶただ)は、受領としての任期を終え、
荷や人をのせた馬を多数つられて、都へ帰る途中の出来事

馬が足を踏み外して底に転落した。
底知れぬ深い谷で、生い茂ったヒノキやスギのがはるか下に見下ろせるほど

これはとても助かるまいと思われ、家来たちはおろおろと騒ぎ立てるばかり。

ところが、はるか谷の底から、かすかな呼び声が聞こえてくる。

生きておいでだぞ

綱を下ろせー

良かったあ。お助けせねば

綱を下ろして、手応えがあったので引き上げようとしたが
人一人にするとえらく軽い。

引き上げてみると、いくつかの平茸

何これ、どういう事?

もう一度下ろせー

今度は本人
そして綱を持つ手のもう片方で、平茸をありったけ抱えている

谷底に落ちたとき、わしは馬の後からくるくる回りながら落ちていった
たまたま木の枝が入り組んでったところに落ちかかったんじゃ
ひと息ついて、ふと見れば、その木に平茸がいっぱい生えておるではないか。
これをこのままにする手はない。手の届くかぎり取って、
上げさせたというわけだ。

まだ残っていたなあ
ああ、残念。大損じゃ。

さすが、たいしたものでございます

これは「今昔物語集」にある受領の話。
当時から「受領は倒るるところに土をつかめ」といわれ
強欲で傲慢なのが 当然とされていた。

この受領の強欲な姿勢をいうことわざが一般的なものになったのが、
「転んでもただでは起きない」である。

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