[名僧] 安国寺恵瓊。僧のまま大名になった男

名僧シリーズです。

恵瓊(えけい)ほど、波瀾に満ちた生涯を送った僧もなかなかいないでしょう。

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)
名門の武士の家に生まれる
あの、武田信玄の分家で安芸(あき=広島)武田家

ところが、恵瓊のお父さんが毛利に滅ぼされる。
幼い恵瓊も命が危ういので、何とか逃げて生きるため、出家という道を選ぶしか無かった。

かくまってくれる寺を見つけ修行の日々

それなりに平和な日々が過ぎ、12年が経過。
竺雲恵心(じくうんえしん)という師匠と出合う。

恵心は恵瓊の並外れた能力を見抜き、弟子にする

ただ、恵心には別の顔があった。

毛利の外交僧

えっ
毛利は父の仇、私がつらいめにあったのも全て毛利のせいなんですけど。

そんな思いを持ちつつも、師匠と共に行動しているうちに
毛利の個々の人々と触れ合えば、人間と人間

毛利も悪くないかも知れん

そうこうしているうちに、師匠が亡くなってしまい
外交僧という立場も引っくるめて後を継ぐことになる

やると決めたからには、昔のことは忘れ
とことん毛利に尽くそう。

恵瓊には、ずば抜けた外交の能力が備わっていたようで
日本の戦国時代の歴史を大きく動かすことになる。

勢力拡大
強大な武力で、どんどん勢力拡大
押してもダメなら引いてみな

攻めちゃっても良いんですが、傘下に入ります?

九州や四国も視野に入れる

そんな時、煩わしいのが織田信長
まだ、あっちとは一戦交えたくないなあ

織田側も同じ思い

一世一代の大交渉

毛利側の交渉人は、恵瓊
織田側は羽柴秀吉

結局は決別するんですが
真剣勝負で交渉するうち、お互いを認め合うようになる

あいつなかなかやるじゃないか

その後は膠着状態が続いていきます。

ところがそうも言ってられなくなります。

織田信長に京都を追われた、将軍足利義昭

形勢挽回とばかり、毛利に近づいてきた。
お味方いただけません?

ハイハイ良いですよ、とすぐには行かない
何せ相手は力が無いとは言え、将軍に違いない

味方するとなった途端、織田との全面戦争は避けられなくなる。

内部で議論を重ね
いよいよその時が来たのかも、
やるか
ってことになったが
それは、自分が天下取りに動くと言うことも意味する。
やるからには絶対勝てるだけの準備をしよう

また、恵瓊の出番です。

上杉等の有力大名の元を走り回り
織田包囲網を作り上げる。

織田もその動きを察知し

たわけが
その前にこちらから潰してしんぜよう

織田が膨大な兵を仕向けます。

もちろんその大将は秀吉

やる気満々ですが、まずは交渉から

これこれこうでどうでしょう。

お互いに準備万端なので、強気強気
なかなか、結論には至りません。

と、突然、状況が変わります。

そうです。「あの日」がやって来たのです。

本能寺の変

秀吉、こんなことしている場合じゃありません。
急いで交渉をまとめてしまおう。

これこれで良いですわ

あらま、ずいぶん譲られたこと
分かりました。手を打ちましょう

秀吉
戻れーっ

中国大返しです。

そのあとすぐに、信長討たれる、の報が届きます。

やっぱりね
どうにも変だと思った。

秀吉には、戦っている場合じゃないという
圧倒的弱味があります。

追いかけて、今こそ、秀吉を討てますぞ
との意見噴出

恵瓊がその意見を押さえます。

恵瓊としても、ここで恩を売っておく方が得策だと思ったのでしょう。

この後、どうなりますか
一旦区切って、続きは明日ね

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

江戸東京たてもの園に行ってきました。

5月のことになりますが
江戸東京たてもの園に行ってきました
江戸東京たてもの園。続き
江戸東京たてもの園に行きました。

自宅から車で十数分
超地元でございます。

ただ、その時はあまり時間が無かったものですから
後半は駆け足になってしまい
こりゃ最低もう一回は来ないとダメだな

とはいえ、残りと言う事なので、それほど長い時間は必要ない。
今週の週末はあんまり時間ないんだよなあ
って時のために取っておこう。

さて、今週末
土曜日は、一日用事で家にいる必要があった
日曜日は、午前中に荷物が届き、午後の四時から車の定期点検
今週の週末はあんまり時間がないんだよなあ

おっと、これだ!
取って置きを蔵出ししましょう。

小金井公園
江戸東京たてもの園は小金井公園の敷地内にあります。

前回来たときは、ガイドさんの案内を聞けなかったので
今日こそは。

聞けば、13:30からということなので
それまでの間、小金井公園を散策しましょう。
とても広い公園なので、爽快感抜群

木々も色づいてきました

江戸東京たてもの園
ガイドに間に合いました。
20人ちょっとでスタート

よろしくお願いします。

まずはこの建物から
受付の入口として使われているこの建物
光華殿(こうかでん)と言うんです。

紀元は2600年の式典で皇居の二重橋の前辺りに立てられた建物です
式典が終ってこちらに移設されました。

その後、戦争になって、学習院が疎開で、この小平にやって来た
この光華殿は校舎として使われています。

その横に学習院の学生たちの寄宿舎も作られた。
その中に、当時学習院の学生だった現在の上皇様もおられ
ここに3年間住まわれています。

3年間は小平市の住民だったと言うことです。
住民税を払われたかどうかは分かりません。

こちらは、ドンと言われる、皇居内にあった大砲です。
明治になってから、正午に時報として、東京中に聞こえるくらいの音をドーンと鳴らしました。

(12/7、大嘗宮を含み皇居のウォーキングイベントをやります。
その時、ドンの跡も説明しようと思ってたんですが
大砲の方の実物がこんなところで見れるとは感激です)

西ゾーン
西ゾーンの10棟の建物を巡っていきます。
60分で巡るということなので、なかなか中までは入っていけません。
入ったのは茅葺き屋根の吉野家

三井八郎右衛門邸は庭から

デ・ラランデ邸
この建物どこかで見たことありませんか?

はい
となりのトトロでさつきとメイの住んでいた家

宮崎駿さんは何度もここに通っておられ
色んな作品の色んな場面に、インスピレーションを得たと言われています。

前川國男邸
建築界の巨匠、前川國男が自宅として作った家
すごいラッキーです。
明日から6ヵ月間、改修工事で見れなくなるそうです。

戦争真っ只中で、広さ制限がある中
何とか広く見せる工夫がいっぱい
これぞ、一流のプロフェッショナルの仕事だ

センターゾーン
旧自証院霊屋(きゅうじしょういんおたまや)
徳川家光の側室お振りの方の霊を弔うための霊廟

あっ、開いてる
前の扉、なかなか開けてくれないんですよ
むちゃくちゃラッキーです。
ガイドが終わったあと、もう一度戻ってきて中の写真を撮りました

徳川ファンの私としては
ここがやっぱり一番テンション上がります。

ものすごい格天井(ごうてんじょう)

高橋是清邸

2.26事件で、高橋是清が青年将校に暗殺された。
その現場がここの2階
大きな歴史の1ページのその場所が
ごそっと移築されたわけです。
大興奮です。

東ゾーン
大正から昭和の商店街を再現しています。

1923年の関東大震災のあと、1930年の世界恐慌までの間
建設ラッシュがあります。
東ゾーンでは、その7年間に立てられた建物が半分くらいです。
その時の建築では
火災に負けない家を作ろう、ということで
銅板で周りを覆ったりしていきます。

こちらを見てください。
ポコポコ穴がへこんでいます。
これは東京大空襲の時、爆弾が破裂し
破片が飛び散ったときの穴です。

ということは、銅板で覆う作戦は効を奏したということになります

三省堂

神田須田町にあった文房具屋さんです。
中にある壁一面の引き出し
数多くの筆の種類を仕訳してしまってあります。

千と千尋の神隠しの釜じいの部屋にあった壁一面の引き出しは、ここにヒントを得たそうです。

子宝湯

ジブリのヒントの話。ここは言わずもがなですね。
この銭湯、通常の倍ほどの建設費がかかったそうです。
例えば、懸魚(げぎょ)

屋根の下の彫り物です。
鷹と雀が彫ってある
雀は鷹に食べられちゃう筈ですが
共存するという平和への願いだそうです。

大金持ちも貧乏人も、子宝湯で服を脱ぐ
裸になればみな同じ

天明家
唯一、前回全く来れなかったのが天明家

農家なんだけど大金持ち
茅葺き屋根の千鳥破風(三角のところ)なんて見たことない

いわゆる豪農って改めてすごかったんだなあと思う
あの三井財閥の三井八郎右衛門邸と共通している部分があったりもする。

ああ面白かった。
さあ、車の定期点検に行くかな

ちなみに今日の晩御飯は
五目おこわと豚汁とポテトサラダにしました。
全部作ったよ

おでかけマップ

[大岡越前] 財政再建と景気刺激策

江戸時代が始まって100年近く
最初は、鉱物資源、特に銀が豊富に取れたこともあって、豊富だった幕府の財政

資源も底をついてきます。

5代綱吉の時に贅沢三昧
綱吉の事が大嫌いで、全て逆の事をしようとした6代家宣も
本人の京都趣味により、大奥は贅沢に走ります。

結果として、8代吉宗の時は財政破綻状態

良く言われる事なので、そうなんだろうと思っていましたが
「大岡越前の構造改革」の本を読んでびっくり

幕臣と言われる幕府に直接雇われている武士たち(旗本や御家人)
武士と言えど戦争するわけではないので、様々な行政を執り行ないます

当然給料は幕府が払うわけですが
その給料が払えなくなったというのです。

今であれば、公務員に給料の不払いが発生した。

大事件です。

私も自身、経験しているので分かりますが
会社なら倒産直前の最終段階です。

貨幣改鋳という卑怯な手で一旦回復。

大奥の女中たちを大リストラ。
吉宗が大奥の美人のリストを提出させた。
これは側室選びかと色めきたったが
リストに上がった美人たちは全員解雇
美人なら、再就職も出来ようとの吉宗の気遣いです。

この話は知っていましたが、ここまで追い詰められていたんですね。

行政費を切り詰める緊縮財政
享保の改革です。

諸大名に年貢を上乗せするよう命じます。(上げ米の制)

ただ、この命令の発表にあたり
恥ずかしながら、と前置きしてから言っています。
前任者が悪いと開き直るのではなく
自分の責任と認識しています。

そして、その代わり、大名たちに参勤交代の緩和を告げます。

それまでは1年交代で1年間は江戸にいなきゃいけませんでしたが
半年いれば帰って良いよ

さあ、吉宗から、大岡越前に話が移ります。

これは大問題。

今で言う東京都知事として江戸を預かる江戸町奉行の大岡越前
江戸の経済って、参勤交代で江戸に滞在してくれている武士たちの消費で支えられています。

1年が半年ということは
その分の消費が半分になるということを意味します。

ちょっとぉ
私に相談してからにしてよ。

予想通り、町人や職人は大打撃
仕事激減で、江戸を離れる人も出始めます。
せっかく安定した物価も、急激に米価が上がります。

享保7年から享保15年まで
大岡越前の大反対で上げ米の制は中止になります。

吉宗、ここに関しては大失敗です

大岡越前、何とか江戸経済を建て直すべく、大奮闘
経済って難しいですね
緊縮財政を取りつつ、江戸では消費刺激策を行う。

両国橋のたもとの大きな広小路
火除地(ひよけち)として、火事の時燃え広がらないようにと、大きく空き地が作られています。
当然、建物建てちゃいけないわけですが
ちょっとばかり規制緩和
常設の店舗じゃなきゃ良いよ

大にぎわいになります。

極めつけが隅田川の花火

庶民は家計が苦しいので財布の紐をキュッと閉めていましたが

皆さん、頑張って遊んでください。

隅田川沿いに桜を植えて、花見の奨励
飛鳥山にもね

規制緩和
両国橋の広小路で仮設店舗が大にぎわいになったので
色んなところで仮設店舗が出現する

例えばうどん屋だが、常設のうどん店はライバルが増えるので大変
取り締まってくれるように常設のうどん店から申請が出された。

江戸って、とても小さな政府にするため
既得権益を持った人たちの権利を守ってやる変わりに
組合的なグループに色んな役割を担わせる。

さあ困った
難しい、さじ加減
ここは、大岡越前、景気刺激策の方に軍配をあげて却下
今度は、仮設店舗の人たちも含めてグループ化するように方針転換
新しい既得権益

駕籠屋に関しても規制緩和をして新規参入しやすくしています。

[江戸の文化]シリーズはこちら(少し下げてね)

[江戸城]石垣を考える。続きの続き

[江戸城] 石垣を考える
[江戸城] 石垣を考える。の続き
の続きです。

刻印石
天守閣は3回建て直された話はしました。
[江戸城] 天守は3回丸々変わって、その後なし
家康と2代秀忠、3代家光です

家光の時って、システムが変わりまして
石を切り出して運搬するのは、「寄方」と呼ばれている担当の藩
江戸で加工して積むのは、「築方」と呼ばれている担当の藩

逆に言うとそれまでは、桜田門の横のこの辺の石垣はおたくの藩ね
と言われると、石を切り出してから、積み上げるまで一貫して行う。

途中運んでいる間にごっちゃになって
あらら、うちの藩の石、一個足らんぞ

そんなことを避けるため
石に各藩のマークをつけたのが刻印石

今回江戸検定1級で出たんですよ

丸に十だけは島津なので違うと分かりましたが、何が何やら
当然不正解。
これが分かる人が、この一億何千万かの日本国民の中で何人いるのでしょうか

いかんいかん。文句言うのはやめましょう。
好きで受けているのは私でございます。

私は残念ながら、江戸城でまだ刻印石を見つけていません。
この前行ったとき、どうしても見つからなかったのよね。
見つけたら、確かに覚えているとテンション上がるよね
うおぅ。細川家やん

面白いなあと思ったのは
藩のマーク以外のマークも付いている

組み立て順かな
それもあるでしょうが、それ以外にも

おまじない

工事が全員安全に完了しますように
出来上がった江戸城が少しでも長く、繁栄を続けますように

想いのこもった刻印石です。

マークじゃなくて文字を書いた刻印もあります。

この前、飯田橋の駅のそば、牛込門に残る石垣で、文字を見つけました。
石垣はこんな立派なもの

その横にでっかい石がどんと置いてあります。

ここでクイズです。
さあ、何て書いてあるでしょう。

この牛込門は、寛永13年に、阿波徳島藩主の蜂須賀忠英が築いたものです。
半分隠れています。

このあと、答を書くから考えてね

刻印石を見るには、江戸城じゃなくても見れます。

ひとつは、小石川後楽園
そこの石垣は、江戸城の石垣を移築したもので
結構いっぱい刻印石が見れます。

面白いのが、地下鉄南北線の市ヶ谷駅の構内にある歴史散策コーナー

石垣や刻印石の説明をしてくれています。

地下鉄で市ヶ谷を通ったら、改札出なくても何線からでも行けるから
駅員さんに、石垣の展示はどこですか?って聞いていってね

【答】
入阿波守内

首を90度左に傾けて見てね
左側の辺の方が土に隠れているのね

阿波だけでも分かれば大正解

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