[神社] 菅原道真が天神様と言われる訳

[神社] 天神様の大出世
の続きです。

菅原道真の死後
前回、菅原道真が陰謀で無念の左遷をされ、そのまま太宰府で死亡、というところまででした。
ここまでなら、可哀想だったねえ、だけなんだけど
このあと、色んな恐ろしいことが起きます。

時平が、39歳の若さで死亡
皇太子の保明親王も21歳の若さで死亡

そうなると、醍醐天皇も気が気ではありません。

元号を延長に改元。
さらに、菅原道真を右大臣に戻します。
さらに、正二位を贈ります。
もう死んじゃってるんですけどね。

これで、大丈夫?
いえいえ、それでは済みませんでした。

時平に近いグループが清涼殿で会合している時に、
それまで雨が降っていなかったのに急に黒い雲が空一面に出現
雷が清涼殿に落ちた。
胸を焼かれて即死するものなど、会合していたほぼ全員が死亡

もうだめだ。
落雷事件の3ヵ月後には、後醍醐天皇も体調を崩して崩御

さらに一条天皇の時代になると祟りの恐怖が蔓延し
何かというと菅原道真のたたり
そのあと起きた藤原純友の乱や平将門の乱までも、菅原道真の仕業だと言われます。

北野天満宮
天慶5(942)年、道真が亡くなってから、約40年が過ぎた時
京都に住む多治比文子(たじひのあやこ)という女性に
道真の霊から託宣があります。

北野の右近の馬場に私を祀りなさい。

ただ、残念ながら文子は貧乏
仕方ないので、自分の家に小さな祠を作っていた。

それから5年後
神良種(みわのよしたね)の7歳の子、太郎丸に託宣が下ります。
私が祀られたい場所に松を生じさせます。

すると、一夜にして、北野の右近の馬場に私千本の松が生えます。

これはっ

多治比文子と神良種が協力して、北野の右近の馬場に北野天満宮を建てて、菅原道真を祀った。

ただこの話、ちと怪しい。
おそらく後で創作された話でしょう。

なぜかというと、菅原道真のうまれる前から、北野には天神社が存在していたから。
雷の神様だった。
清涼殿落雷事件から、菅原道真と雷様は同一視されていたので
自然な流れで、北野天神社に菅原道真が祀られるようになったのでしょう。

天の神様=雷様ということです。
菅原道真が天神様になったというよりは
元からあった天神様に菅原道真が相乗りしたような形。

藤原時平の弟、忠平に藤原師輔(もろすけ)という息子がいます
師輔としては、いつ何時自分に祟りがあってもおかしくありませんから
北野天神社はグッドニュース

師輔はカネ持っています。
よし、北野天神社を大きく増築しよう。
永延元(987)年には、天皇が直接祭りを行い
名前を北野天満宮と変えます。

正暦4(993)年には、菅原道真にとうとう、正一位左大臣の位が与えられ
さらにすぐあと、太政大臣にまでなっています。
死後とはいえ、位階について職制に関しても最高位にまで上り詰めたということになります。

これって言い方を変えると、朝廷が菅原道真の祟りの存在を認めたということにもなります。

太宰府天満宮
八幡神社とかで言うと、石清水八幡宮は、宇佐八幡宮を勧請(かんじょう)しています。
フランチャイズであり、お裾分けであり、分身の術なのが勧請です

ところが、天神様に関して言うと、
太宰府天満宮と北野天満宮はどちらかがどちらかを勧請したわけではない。

太宰府天満宮って、元は安楽寺というお寺だった。
菅原道真のお墓のあるお寺だったんです。

なんか京都で北野天満宮というのが出来たらしいよ
祟りがおさまるんだと。

そりゃ便利
じゃあうちもお寺やめて神社にしちゃおうってことで
太宰府天満宮の出来上がりです。

次回は、梅や牛の話
さらに、なぜ祟りの神が、大きく庶民に愛される神社へと発展するのかをお話しします。

[神社]シリーズはこちら(少し下げてね)

[明治]大久保利通その2。岩倉具視使節団で行ったり来たり

[明治]大久保利通は用心深い妻
の続きです。

廃藩置県
中央集権化について
版籍奉還で薩摩や長州や土佐がリードしていこうと考えていたけれど、
木戸孝允とどうにも細かいところで意見が合わない
さらに肝心の膝元の薩摩では久光が猛烈に抵抗する

にっちもさっちもどうにも行かなくなってきた。
もう投げ出したい気分になったとき
長州藩の鳥尾小弥太と野村靖がある提案をした。
藩をなくしてはどうか

大久保は現実主義だから、理屈だけの思い付き的案は好きではない。
あまりに急激過ぎる案はとりあって来なかった。

ん?ひょっとして

どうにも行き詰まったとき、視点をもう少し高く置いて
「細かいところ」を根本的になくしてしまったらどうなのか
大物政治家とは、そういう発想が出来る政治家を言うのだろう。

その前に藩主たちに、身分は保証するからという約束をしている
約束を反故にすることになる。嘘つき呼ばわりされるだろう。
でも、いずれそれをしなければ何も解決しない。
誰かが悪者にならなきゃいけないなら
私がとことん嫌われてやろう。

断行した

ところが、不思議なことに藩主たちから明確に文句が出たのは島津久光ただ一人
並々ならぬ覚悟が通じたのかも知れません。

一旦3府302県としたものの、すぐに3府72県にまで統合。
断ち切る覚悟を示すために新しい県の名前は、ほとんど藩の名前を使わなかった
県の長官にはその県の出身者を採用せず、他の県の出身者を当てた。

岩倉具視使節団
そんな廃藩置県の僅か一ヶ月後、大隈重信から条約改正の予備交渉の派遣が発議された
幕末の不平等条約は、改正の交渉をする場合
1872年(明治5年)5月26日以降と書いてあったから。

日本にとって最重要課題だから、岩倉具視が行くのは良いとして
大久保利通と木戸孝允の両方行っちゃうのはどうなの?とは思われた。

正直、大久保利通としては日本にいたくないという気持ちが働いたのかも知れない。

天皇は岩倉大使に全権委任の「国書」を授けた
任務は3点
1.条約を締結している各国を訪問し、元首に国書を提出
2.条約改正にはまだ時間がかかるので、条約改正のための予備交渉を行う
3.欧米諸国に追い付くために調査

約1年3ヵ月にわたってアメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツの各国を訪問した。

最初のアメリカで意外なほどの歓迎を受ける。

これが勘違いを生んだ

ひょっとすると、予備交渉とかじゃなくて、本交渉まで行けるんじゃない?
森有礼(ありのり)と伊藤博文がそう提案

あのう、条約の交渉をしたいんですけど

オッケー。じゃあ全権委任状見せてね
ショーミープリーズ

あっ、予備交渉の委任状しかない。

ノーノーそれじゃ無理ですね。

まずい。全権委任状取り直してこよう
悪いけど大久保さんと伊藤さん
お願いして言いかなあ。

分かりました。とんぼ帰りのバックホームね

急いで帰って、抵抗する外務省を一生懸命説得し再度委任状をもらって戻ります。
実に4ヶ月のロス。
大久保の日記では、アメリカでの印象がほとんど書かれていません。

さあ、交渉だってとき、イギリス駐日代理公使アダムズとドイツ駐日公使フォン・ブラントが事前に耳打ちしてくれます。
個別の交渉はやめたほうが良いですよ
「最恵国待遇」という条項が書かれている

例えば、最初にアメリカと交渉したとします。
交渉ごとですから
アメリカさんの求めるAという条件は飲みましょう。その代わり、こっちのBという条件を認めてもらえませんか
と言って交渉成立したとします。
すると次の国に行ったとき、Aという条件は相手国がもう得られている。
Bの方はダメなんですけどね。

えっそうなの?

はい、「最恵国待遇」と言って国際法でのルールね
アンダースタン?

自分達があまりに無知だったことに愕然とします。
予備交渉もやめましょう。
じゃあとんぼ帰りも必要なかったんじゃない。

予定を大幅に超過し、ヨーロッパに向かいます。

イギリス、そしてフランス
大久保はアメリカの印象はないので、この時点でビックリ仰天

何なんだ、この工場ってのは
次から次から自動的に品物が出来上がっていく。
食べ物にいたるまで、工場で作っているとは
話にならん。勝負にならん。

さらに鉄道。
田舎の方まで張り巡らされた鉄道網

こんなところを相手に、攘夷とか言ってたのか
いやあ、危なかった。

思いきり落ち込みます。

次に訪れたドイツ
ちょっとほっとします。
何歩も先行かれちゃうと落ち込むだけだけど
ドイツはその時、一歩先くらいに感じた。
大好き、ドイツ

さらにビスマルクの人柄や考え方に感銘
よし。モデル国その1決定!

次はロシアか
ここもモデル国その2になるかな

わくわくと気持ちが乗ってきたのに
日本の三条実美から連絡

あかん。問題山積みで、私の手に負えん。
お願いだから帰ってきて。

待っていたのは?

続きは、また

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

[天皇]45-3 聖武天皇。ただ仏に帰依する晩年。

[天皇]45 聖武天皇。未曾有の大感染。
[天皇]45-2 聖武天皇。ど、どこ行くの
の続きです。

奇行の先に
未曾有の大感染で壊滅的になった国を立て直したい
精神的に拠り所となるものとして、仏教に傾注していきます。

それ自体悪いことではないですが
取った行動がいかにもおかしい。
カネのかかる遷都を繰り返し
自分は紫香楽宮を仏都にすべく都を留守にする日々

紫香楽宮では地震が多発し、結局は逃げ出し、向かった先の難波宮では自分が大病にかかってしまう。

ああ、自分は一体なんてことをしてきたんだ
これは天罰に違いない。

病気で弱気になったということもありますが
考え方を大きく変えるに至ったのには、ある男の生きざまがありました。

行基
行基は、聖武天皇とより多少年齢はいっていますが、同時期に生きた僧。

心身ともに疲れている人々を救うため、仏教を熱心に説いていきます。
さらに、貧しいものたちを支援するために、布施屋(ふせや)というものを作ります。
度重なる宮の建設は民衆に大きな負担を強いますが
そのためにかり出された人たちへの簡易宿泊所

さらに作ったのは院
お寺なんですが、お寺って、当時はあくまでも国家のためのものだから、民衆が勝手に作ってはいけません。
ある場所を柵で囲っただけの簡単なもの

とは言え、実態はそこで説法とかも行われる訳ですから、法逃れではあります。

朝廷は行基の行動を弾圧します。

ところが活動が縮小されるわけではなく
民衆がどんどん集まる一方です。
「知識」という名の組織になっていきます。

そうなると国も黙っちゃおれません。
クーデターを起こし政府転覆の動きに発展するかも知れません。

正直、政治が悪いので民衆が苦しんでいる訳です。
国からするととても怖い状態。

本当にそういう動きをしようと思えば出来る規模になってきました。

ところが、行基はそういう方向には進まなかった。
「知識」のみんなを引き連れて、今度は橋を作り、溜池を作り出した。
宮の建設は押し付けられた苦役だったのに
「知識」のみんなは自ら進んで過酷な労働を行っている
もちろん無収入なのに、それこそが仏教の修行だととらえている。

弾圧しようとしていた聖武天皇はとても驚きます。

行基とはなんてすごい人間なんだ。
仏教とは、なんてすごいんだ
今まで自分は災害続きの現状から逃避し、仏教に逃げていただけだ
本当の仏教とはこういう事なんだ。

仏教で国を作ろう。

国分寺
全国に寺を作ろう
県庁所在地みたいに、国ごとにひとつずつ
国分寺と言います。

そして平城京のこの地に、全国の国分寺の象徴として、大きな寺を作り
そこに大仏を作ろう
紫香楽宮では、大仏を作ろうとして失敗したけど
今度こそ本当の大仏を作るんだ

ボランティアを募集しよう
こんな事考えてますけど、協力してくれる人募集
色々材料持ってきてね

嘘つけ、それはまた苦役なんじゃないの?
そう思うでしょ
散々今までおかしな行動を取ってきましたしね。

正直、実態としてどれ程ボランティア的活動だったのかは分かりません。

ただ、ひとつだけ事実として分かっている事があります。
行基が協力を申し出て来たのです。

もし、この聖武天皇の問いかけが形だけのものだったら
行基は反発していたんじゃないでしょうか

行基と聖武天皇は同じ方向を向いた。
仏教による国作り、そして大仏作りを始めます。

さらに強力な支援者が現れます。
八幡神社です。
仏教で国作りをしようと言っているのに
神社の二番手が全面協力すると。

八幡様って、財力もあるし、鉄とかの金属の技術で発展してきています。
とっても頼れる。

ただ、困ったのが金メッキ
大仏様を金メッキして金ぴかにしたい

でも日本で金がまともに産出したことはありません。
外国から輸入しないといけない訳ですが
こんな大きな大仏さんのまわりですから困難をきわめます。

ところがある日グッドニュースが飛び込んできます。
東北で金が出た!

日本の歴史上初めてと言って良い
今までの元号、天平に二文字くっつけて「天平感宝」と改元
同年の、孝謙天皇の即位の時に「天平勝宝」
その後、「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」と四文字元号時代が22年間続きます。

疫病で100万から150万人の人が亡くなる壊滅的事態
しかもその後、聖武天皇の奇行と遷都で財政は破産寸前だったのに
このあと、V字回復で豊かになっちゃうんです。

ある程度軌道に乗ってきたところで譲位します。
皇太子として指名していた娘に譲る
自分は太政天皇です。

今まで、太政天皇って天皇の補佐役をやっていました。
初めて聖武天皇は補佐をしなかった。
自分は出家する
実際、病気で体がついていかない。
自分は政治をする資格がない
長くないであろうこの先の人生
仏にのみ捧げたい

奥さんの光明皇后に、頼みます。
娘の孝謙天皇の補佐をしてやってくれまいか

もうあと聖武天皇の命が持たないだろうと
首から上のメッキが出来た状態のとき
まだ、鋳型の土に首から下が埋まっておりましたが、
大仏の開眼法要
目を書き入れます。

天平勝宝4(752)年、4月9日です。

この時の様子はこちらも読んでね
ハッピー還暦!

眼を書き入れる筆の先に紐をつけて孝謙天皇、光明皇后、そして聖武太政天皇がしっかり握って結縁(けちえん)
残念!ちょっと前に行基は亡くなってしまっていました。
一緒に祝いたかったろうに。

天平勝宝8(756)年、聖武太政天皇は56年の生涯を閉じます。

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

[名僧]村上専精。仏教を統一しましょう。

名僧シリーズ、明治です。

村上専精(せんしょう)
1851~1929年

明治の廃仏毀釈でガタガタになった仏教を立て直すべく立ち上がった男たち
その内の一人が井上円了でした。
続けとばかりに、この人、村上専精

丹波(たんば)の山中の極貧の寺に生まれます。
それでもお父さんは幼い専精に浄土三部経の読み方を仕込みます。
現在だと幼稚園に行っている年齢でお経が読めるようになります。

8歳で他の寺に預けられます。
いくつかの寺を転々としながら何とか食い繋いでいく日々
それでも、漢文の素読(意味は教わらず単なる暗記)をさせてくれる寺もあり
ひたすらに何度も読んで暗記します。

学問への意欲が押さえられず、姫路へ出ます。
漢学塾へ入学
働きながらだと学問の時間が取れないので、朝托鉢して回り
ひたすら漢学を学びます。

さらに、高度な仏教を学ぶべく、越後へ行きます。
その後、三河へ、京都へと移りながら学問を追究していきます。

京都では東本願寺の唯一の専門学校であった高倉学寮へ入学
でも残念。この時期、高倉学寮では色々あって、全学生が退学する大事件
やむなく、専精も一旦三河へ戻り、入覚寺という寺に養子に入ります。
ここで村上姓を名乗ることになります。

やはり学問への思いを絶ちきれず、寺の事を捨ておいて、学問ばかりしていたので、大クレーム
逃げ出すようにして、また京都へ
今度は東本願寺の教師教校へ入ります。

これ以降転々とはするものの、仏教への教育者の道を進むことになります。
東京の曹洞宗大学(駒沢大学の前身)に招かれ東京へ。

井上円了の自宅にも挨拶に行きますが、すでに相手は有名人。
緊張のあまりほとんど何も喋れなかったようです。

それでも円了の哲学館へ、講師として招かれています。

仏教教育者としての実績を積み上げていく一方
一般庶民に対しても仏教を広めるべく、神田に、仏教講話所を設け
布教活動も行っています。
教育者としては、大谷教校校長、東京大学講師と進んでいきます。

仏教研究
専精は日本の仏教を学問に高めた第一人者と言えます。

仏教を知の側面と情の側面でとらえます。

人には情的な人もいれば知的な人もいる
仏教を情ととらえるならそれは宗教
知ととらえるなら、まさしく哲学だとします。
表裏一体なので、仏教にも理論的説明が必要なのだと。
井上円了に通じますね。

仏教を理論として研究していくなかで、彼自身が自分の活動を三つの期に分けています。

第一期
あえて一般の人たちに分かりやすい表現で、布教を進めていった時代
先程の神田の仏教講話所が代表例です。
「仏教講話集」という本も出しています。

第二期
一期のような活動は、優秀な人材や機関が整ってきました。
もう彼らに任して大丈夫。
ここは、卒業

次なるテーマは仏教の歴史
仏教の歴史的研究が大きく遅れていると、自ら先頭にたって研究を進めていきます。

第三期
さらに、歴史的研究を発展させて、比較研究に入っていきます。

今までの仏教のアプローチは、各宗派の中でのみの研究にとどまっていました。
私は何宗ですから、と

専精は
私は各宗派を研究するつもりはない。仏教を研究する。

言いましたねえ
そんなですから、今まで仏教の「お約束」とされていたことにもズバズバ踏み込んでいきます。

一番物議をかもしたのが、大乗非仏説論

うわあ、それ言っちゃったのね、ってもの

仏教には、大きく大乗仏教と小乗仏教があります。
仏教を始めたのはお釈迦様
そのお釈迦様の教えだけに限定し、
僧が修行を行って解脱(げだつ=悟りをひらく)することを強く追求していくのが小乗仏教
対して、もっと広く、一般の在家信者も含めて救いの船に乗れるようにしましょう、というのが大乗仏教
中国や日本に伝わったのは大乗仏教です。
タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアとかは小乗仏教です。
大乗仏教では、お釈迦様に限らず、もっと色んな追加された教えも認めていくことになります。

大乗仏教側の人達は、広さ、言い方を変えるとゆるさ、を良しとしますから
色んな事に、まあまあ良いじゃないですか、と約束事として目をつぶっています。

そもそもお経ってお釈迦様が書いたものではない。
むしろ、私の教えを文字にしちゃだめ、口から口への伝授しか許しません、と言って亡くなっています
にもかかわらず、全てのお経は、「釈迦が言いました」から始まっています。
阿弥陀如来だの、大日如来だの、普賢菩薩だの
架空の人物との問答集がお経になったりしています。

これ、少なくとも大乗仏教の人達にすれば「痛いところ」な訳で
指摘しちゃいけないお約束な訳です。

キリスト教で言えばノアの箱舟
天皇制で言えば、万世一系

初めて「違うものは違う」とちゃんと言いましょう、
その上で、内容として、優れているものを認めていきましょう、と

ここまでちゃんと聞くと、そうだよね、となるはずですが
最後までちゃんと聞かない人たちが、けしからん、となっちゃうのです。

職を解かれたりとか一時は不利益を被りますが
このおかげで、ちゃんとした議論が大きく沸き起こり
仏教は理論として大きく進むことになるのです。

そして、仏教を統一して考えるという事も大きく進んでいきます。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)