[天皇]45-2 聖武天皇。ど、どこ行くの

[天皇]45 聖武天皇。未曾有の大感染。
の続きです。

復興
疫病(天然痘)の大流行で、ぼろぼろになった政府に投入されたのが橘諸兄(たちばなのもろえ)
お父さんが美努王(みぬおう)という皇族で、母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのみちよ)
光明皇后と一緒のお母さんです。
母方の橘という姓を継いだので、元皇族の橘姓誕生です。

色んな復興策を取っていきますが、一番有名なのは墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)
教科書で出てきましたね
天智天皇が掲げた「全ての土地は国のもの」という大原則をとうとう完璧になきものとしました。
土地の私有を完全に認めます。
復興のために活力が必要だったんですね。

皇太子
人民の不安を解消すべく、次の天皇を決める事にしました。
候補としては、安積親王(あさかしんのう)という人がいます。
ただ、まだ11歳
光明皇后もまだ子供を産める年齢
どちらかに繋げば良いと思いつつ、早めに決めるため
聖武天皇と光明皇后の娘を皇太子としました。
後の孝謙天皇です。
女性の皇太子はあとにも先にもこの人だけです。

藤原広嗣の乱
藤原不比等の4人の息子は全員天然痘で亡くなったがその子供で生き残ったものも。
三男宇合(うまかい)の息子の藤原広嗣(ひろつぐ)
災害が続くのは政治が悪いからだ。
人事を一掃せよ
要求をつきつけるが、即座に謀反ととらえた。

挙兵の準備が満足にできないうちに、そっちの方が早かったか

藤原広嗣のいる太宰府へ、大野東人を大将軍とし、征討軍を派遣
征討軍が優勢のうちに進み
逐一大野東人は報告していった

ところが、聖武天皇は驚くべき返信をした

なんとこの大事な戦況の最中
元正太上天皇と光明皇后、そして多数の官人を引き連れて、
伊賀・伊勢・美濃・近江・山背を巡幸したのである

「朕は思うところがあるので、しばらく東へ赴くことにした。
戦乱の最中ではあるが、やむを得ないことである。
将軍よ、これを聞いて驚き怪しまないように」

驚き怪しむでしょうよ

聖武が平城京を発った10月29日、広嗣はすでに捕まっていた。

旅行を終えても、聖武天皇は平城京に帰らなかった
山背国相楽郡に新都恭仁京(くにきょう)を作るぞと宣言
復興だっていうときに何すんの
平城京じゃなきゃ奈良時代じゃないよ

自然豊かな美しい土地
疫病大流行の凄惨な記憶が生々しく戻るのが辛かったのかも知れないけれど

かなり本格的な遷都
五位以上の貴族には全員引っ越し命令
天平13年です。

でも、ここまでならまだね

甲賀郡紫香楽(しがらき)村に行きたいなあ
天平14年、一年のうちに4回も旅行し
紫香楽村に別荘を作ると
天平15年には4ヶ月もの長期滞在
そして、ここに大仏を作ると宣言

紫香楽村に関心が集中すると
恭仁京に手が回らなくなった
15年の暮れ、大極殿が完成したところで中断

まいった。中途半端だ
どうしようか

あっ、思い出した
すごく立派な都なのに放っておかれているところ
あの孝徳天皇の難波宮(なんばのみや)

じゃあ官人たちにアンケート
難波宮と恭仁京どっちを都にするのが良い?
難波宮が153票、恭仁京181票
さらに市人たちに聞くとほぼ全員が恭仁京

よしっ、難波宮だ

はあ?
じゃあなんでアンケート

大急ぎで高御座(たかみくら)等の天皇の象徴を移す

ところが皇都宣言のとき、聖武天皇は難波宮にいなかった
紫香楽村に行っていて
代理で元正太上天皇と橘諸兄が皇都宣言

紫香楽村には盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が作られた。
聖武天皇が理想とする仏都がそこにはあった。

紫香楽宮
でも紫香楽宮の仏都は長く持たなかった
天平17年、新宮に山火事が相次いだ
政治に批判的な人が放火したのだ
さらに4月末から5月にかけて地震が多発した。

いたるところで地割れが発生し水が吹き出した。

これは聖武天皇にひどくこたえた

これは自分の失政に対する神の叱責ではなかろうか

ようやく分かったか

平城京へ戻ろう

ようやく分かってくれましたか

地震がおさまっていない8月末
聖武天皇は難波宮へ向かった

あれ?

そしてこの難波宮の地で病気になってしまう。
危篤状態

聖武の快復を祈って、神仏に祈禱を行ない、
殺生のもととなる鷹や鵜を捨て、3800人もの出家を許した

その甲斐あって聖武天皇が持ち直した。
平城京へ戻る

ただ本調子ではなく
元正太上天皇も病気になってしまい
そのまま帰らぬ人に

安積親王も亡くなってしまい
もう頼れる人は光明皇后しかいなくなった。

さあ、どうする聖武天皇

この続きはシリーズの次回にね

[天皇]シリーズはこちら(少し下げてね)

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