[天皇]15 応神天皇。出ました、世界の八幡神

天皇シリーズ

応神天皇
~394年? 誉田別尊(ほむたわけのみこと)

八幡神
出ました。お馴染みです。
今、八幡神社をシリーズでやっておりますので、その主祭神の一人です。

我は誉田別尊(ほむたわけのみこと)なり
ってお告げです。

神功皇后が石を股に挟んだまま、朝鮮出兵
帰って来てすぐ、石を外したら、ポンッ
産まれたのが応神天皇です。

ということは九州生まれです。

神話(古事記、日本書紀)によると、その後、瀬戸内海を船で移動
大阪に着きます。
大和(奈良)に行こうと思ったんだけど
異母兄の香坂王(かごさかおう)と忍熊王(おしくまおう)が大和入りを阻もうとする。
長くに渡る大激闘の末、応神天皇が勝利し、大和入りを果たす。

古墳
応神天皇と言えば、その子供の仁徳天皇とともに前方後円墳ですね
誉田御山古墳(こんだごびょうやまこふん)
仁徳天皇陵に次いで全国2位の大きさです。
おめでとうございます。世界遺産に決定!
これで応神天皇は世界の天皇
八幡神社は、世界の神社でございます。

不思議なのが古墳の場所
何で大阪なの?奈良じゃないの?

外来文化

途切れた天皇
古事記、日本書紀では、頑張って天皇がずっと続いているとしたい訳です
でも明らかに、途切れちゃって困った事があって
継体天皇は、どんどん遡って、応神天皇から枝分かれ。
こんな感じ

どんな天皇
八幡神社から考えるとどうにも不思議だったんですよね
何で、数いる天皇のうちで、祭神を応神天皇と定めたのか。
なんで、九州北部宇佐地方の神様が、大和の天皇なのか。

古代の歴史の解釈は、材料が少ないだけに数多くの学説に分かれています。
その中の一つの説を元に、でーこんとして勝手にイメージしてみました。

1.崇神(すじん)天皇から応神天皇の手前まで
2.応神天皇
3.仁徳天皇から継体天皇の手前まで
4.継体天皇以降

と、大きく4つに分けられる。

1.崇神天皇は、朝鮮半島の任那(みまな)に大きく影響を受けた天皇
和名はミマキイリヒコ
キは城なので、王という意味
任那(みまな)のナは土地という意味なので、国の名前としては「みま」
即ち、ミマキイリヒコは任那(みまな)の王ということ

任那(みまな)には日本の大使館が置かれていたんだけど
小さな国なので、新羅(しらぎ)に征服されたとき
神功皇后が石を挟んで応援に行ったのは親戚だから。

2.でも、朝鮮半島の情勢に連動して、応神天皇から勢力図が変わってくる。
八幡神が半分、新羅からの渡来人が構成しているのは以前にも書いたが
ということは、任那に後押しされた勢力が
応神天皇の新羅に後押しされた勢力に取って変わったのではないか。
崇神、応神、と両方に「神」か付くのは、ここからスタートということを表している。

おそらく、九州と奈良のせめぎあいはずっと続いていただろうけど
崇神天皇グループにしても、応神天皇グループにしても
朝鮮半島に近い九州にはその地盤は残していたに違いない。

3.本格的に近畿側に移っていったのは、応神天皇の子の仁徳天皇
でもすぐに奈良ではなく、宇佐地方(大分)から船で近い大阪に地盤を置き、じわじわ広げていった。
だから、大阪に古墳。
仁徳天皇はお父さんの応神天皇を尊敬していたから、応神天皇の墓ということで大きな古墳を作った
墓ということは、応神天皇自体が作れないので、仁徳天皇が作ったことになります
応神天皇は九州に残った。

その後、仁徳天皇が大和に巨大な勢力を作っていき
二手に分かれる格好

どんどん大和は拡大するが
残念ながら途切れてしまう。

4.九州に残った、応神天皇から始まった勢力は
元々親戚なので
そのきっかけを持って、大々的に大和へ進出し、本格的な合体がなされ
継体天皇以降に、大きな中央政権が誕生する。

こう考えれば色んな事の辻褄が合ってくる気がするんですけど
どうでしょうか。

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[大奥]12 家慶。姉小路は超切れ者。

大奥シリーズも大詰めに近づいて参りました。

12代将軍、家慶です。

お父さん家斉が15代将軍の中でダントツの長期政権
待たされて待たされて。

家斉が64歳の時、ようやく将軍の座を譲ってくれた。
でも、自由にはさせてくれません。
それから4年間大御所政治で、そのまま全て家斉が実権を握り
結局、家慶が実質将軍となりえたのは、家斉が死んだとき
家慶すでに49歳
男性の平均寿命が45歳の時です。

そんなこんなで、お父さんの事が大嫌い。

まず、家慶が手掛けたのが、大嫌いなお父さん色の払拭
家斉の側近達を全て罷免します

水野忠邦に全てを任せて、天保(てんぽう)の改革を推し進める。

正室
正室は従来の慣習に戻って、宮家から、楽宮喬子(らくのみやたかこ)
二度流産した後、翌十年に第一子竹千代を出産した。
しかし不幸にも翌年に亡くなる。
翌々年とその次の年、立てつづけに姫君を出産するが、いずれも生後まもなく死亡。

姉小路(あねがこうじ)
楽宮喬子にお付きで京都からやって来た、姉小路
とっても切れ者で、大奥全てを取り仕切る、お局様となる。
器量も良かったようで、家斉は放っておきませんでした。
子供までは出来ませんでしたけどね。

水野忠邦が進めた天保の改革はケチケチ路線
贅沢好きの家斉のもと、ゆるゆるになっちゃった大奥にメスを入れなきゃ

まことに仰せの通りでございます。
さっそく奥向でも無用な費はいたさぬよう申しつけましょう

一番の強敵だと思っていた姉小路があっさりと承諾してくれた。

水野忠邦ほっと胸をなで下ろす。

ところで、水野様は、妾(めかけ)はお持ちでらっしゃるのかしら

まあ、人並みには。

人の自然な欲望でございますわね。
女性もまた男性を欲しまする。
ところが、この大奥にいる女中たちは叶わず、一生御奉公でございます。
なにかうまいものを食べるとか、美しいものを着るとか、
ほかのことでまぎらわす必要があるとお思いになりませんか

はい、おしまい。

一枚も二枚も役者が違います。

水野忠邦、大体において考えが浅く、
天保の改革は中途半端なまま、短期間で失脚してしまいます。

阿部正弘
後を引き継いだ阿部正弘は、難局をよく切り盛りしていきます。
そして、一番の課題だったお美代事件の後始末。
日啓とかを逮捕し、獄中死。
お美代自体は、最後まで粘ります。
家慶を早々に引退させて、加賀百万石の前田家から養子をもらおうと画策します。
逆にその事で、動かぬ証拠を阿部正弘に掴まれ、万事休す

完全に大奥は、姉小路の独壇場となります
姉小路は、さらに、阿部正弘とガッチリタッグを組んで
政治にも口出しするようになっていきます。

側室
家慶は、好色だけはお父さんの家斉の血を継いでいます。
将軍史上二番目の子沢山
7人側室がいて、実に、24人。

ところが、
そのうち、たった3人しか育っていない。

家定(十三代将軍)、慶昌(一橋家に養子)、暉姫(田安家と縁組)

さらに、30歳を越えたのが家定一人で
その家定ですら、よくドラマで出てくるように障がいを抱えている。

もっというと
側室自体、次から次へと死んでいく。

何かがおかしいんだろうか。

一説によると、当時の大奥で一般的だった化粧が毒性が強いとか
お歯黒にも毒性があったとか

世間では、「死にたけりゃ将軍様に嫁ぎぁよい」という歌まで歌われる。

家慶自体も気にするんだけど、好色をやめる訳じゃない。
側室と正式に決めちゃうと死んじゃうので
側室じゃない人に手を出すという、頑張り屋さん

誰でしょうって、なんと、姉小路その人
もうその時は、結構お歳を召していたはずなのですが
熟女もオーケーなんですね
流石です

姉小路は人間的にも、魅力的だったんでしょうね。

お美代とかとは違い、ただ、おねだりばかりではなく
ちゃんとどうあるべしを考えられる人だったようです。

さあ、とうとうあの日がやって来ます。

ペリー来航

えらいこっちゃ
家慶、これからが腕の見せ処。

でも、そもそもが高齢
それから一月もしないうちに死んじゃいました。

何せ、次の将軍は、家定。
となると、ここは姉小路に頑張っていただいて。

誰しもがそう思ったのですが
いともあっさり、引退して出家しちゃいました。

阿部正弘が孤軍奮闘ということになります。

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鎌倉時代の名僧あれこれ。重源と貞慶

鎌倉時代で宗派を興した開祖達を一通り紹介しました。

法然(浄土宗)親鸞(浄土真宗)一遍(時宗)栄西(臨済宗)道元(曹洞宗)日蓮(日蓮宗)

今回以降、鎌倉時代でそれ以外の名僧を何人かずつ、紹介いたしましょう。

重源(ちょうげん)
1121~1206年

源平合戦で、平家により奈良の大仏殿が焼かれちゃった。
何とか再建したい朝廷だが、聖武天皇の時とはだいぶ違い、全く金が無い

そこで、重源に
東大寺勧進職(とうだいじかんじんしょく)を命ず。
あとはよろしく。

今であれば、東大寺復興担当大臣。

その時、重源は既に、61歳。

えええっ。
あとはよろしくと言われましても。

仕方ありません。
方々のお金持ちに頭を下げまくって、寄付を募る。

それでも遥かに足らず
一輪車を作って、全国を寄付を募る旅に出る。

再建が始まっても
お坊さんたちは、自分達が住む僧房を先に再建してくれだのと言いたい放題
まあまあ、と調整役に奔走。

建築様式も、当時の中国で最新だった方法をアレンジし
大仏様と呼ばれます。

とても長くやってますので、木材の運搬で新たな方法を開発したりと
建築全般の専門家とも言えるほど。

見事に東大寺が再建なったのが、83歳

生きている間に、東大寺の再建完成を見れて良かったね

貞慶(じょうけい)
1155~1213年 法相宗
当時の法相宗がかなりいまいちになっていたのを立て直す。

法然とかと同じように、諸国を回る、聖(ひじり)という生き方だった。

一番有名なのは、
興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した
『興福寺奏状』の起草者だということ

折角法然が頑張っているのに、いわゆる抵抗勢力的な事をして、嫌な奴
とも思える。

でも、調べていくと、疑わしいとの文章があった。

興福寺奏状って、2つの訴状から成り立っている。
その1とその2、って感じ

ところが、その1とその2があまりに違いすぎるんじゃないの?と
法然を批判しているのは、その2にしか存在せず
その1は、むしろ法然を讃えている。

その1は法然の事を敬称である「上人」と呼んでいるんだけど
その2は法然の本名である「源空」と呼び捨て

とても怪しいです

考え方は違うかも知れないけど、貞慶だって、足で諸国を回る苦労人
同じスタイルの法然をボロのチョンに言うだろうか

歴史における真相って、とても難しいですね

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新江戸百景巡り。世田谷代官屋敷と行人坂

連休中日。朝から雨
午前中に用事を済ませました。
雨だし、おとなしくしているつもりだったんですがねぇ
ダメです。虫が騒ぎます。

お出掛けだっ

世田谷代官屋敷
新江戸百景巡り、残り6つ

そのうち、雨でも何とかなりそうなところは?
世田谷代官屋敷
同じ敷地内に世田谷区立郷土資料館
これだ

あっお祭りだ

ボロ市とかをやって盛況な通り。
積極的に人を呼ぼうというこの姿勢は素晴らしいです。
さぎ草市は良いですね。
さぎ草は、世田谷区の花。
売ってる!

咲いたらこんな感じね。鷺そっくりでしょ

モウセンゴケ、ハエトリソウ、オジギソウとちょっと珍しいての植物を売っていてとても楽しい。

雨ももうポツポツになってきた。
良い感じだぞ

ところでおかしいなあ
地図だと世田谷代官屋敷はちょうどこの辺の筈
お祭りの交通整理のおじさんに聞いてみました。

ここですよ
でもひょっとすると工事中で入れないかも。

言われた入口の場所に言ってみると
うぁちゃー、11月まで改修につき休業とのこと
覆われていて何にも見えません。
本来ならこんな感じ

今、東京の各観光地はオリンピックへ向けてリニューアル大作戦。
良いことなので仕方ないですね
きれいになった後でまた来ることに致しましょう。

代官は事務方トップ。かなりの権限を持っています。
世田谷代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅
住宅建造物としては都内で初めて国の「重要文化財」に指定されているというすごいもの
やっぱり見たかったなあ

来たのは来たわけですからクリアです
自分に甘い、でーこんでございます。

世田谷区立郷土資料館
同じ敷地内ですが、郷土資料館はやっていました。
助かったあ

23区はそれぞれ工夫をこらして、資料館やっています。
結構楽しめます。
世田谷区は大きいので色々売りがあります。
吉田松陰とか
でもやっぱり井伊直弼かなあ

これがペリー来航のサスケハナ号

企画展では、ちょうどお祭りでやっているさぎ草と蛍

とても美しい常盤姫(ときわひめ)
その美しさ故に妬みをかい、無実の罪を着せられます。

可愛がっていた、鷺の足に歌をしたためた手紙をくくりつけて放ちます。

お前だけでも行きておくれ

常盤姫は、自害

鷺は姫の想いもむなしく、姫のお父さんが偶然にも狩りで撃ち落としてしまいます。

なんじゃこれは

足にくくりつけられた手紙から全てを悟りました。
おお、哀れ愛しき常盤姫

鷺の射落とされた場所に、小さく可憐な鷺草が咲きます。

行人坂
代官屋敷がお休みだったので、不完全燃焼です。
もう一丁行こう。

目黒の行人坂へ

行人坂は江戸の三大大火のひとつ
行人坂の大火の火元、大円寺のあるところ

すごい急坂

ですから、見張らしも良く、富士山を眺める名所だったみたいです。

大円寺です。

阿鼻叫喚の地獄絵でしたので
その人たちの霊を慰めるべく、膨大な数の石仏


息が出来ないほどの独特な何かが迫ってきます。

そして、とろけ地蔵

お地蔵さんがとろけちゃっています。
お地蔵さんは、元々身代わりになってくれる仏様
しばられ地蔵とかもありますが
こんな悲惨な姿になってまで、身代わりになろうとしてくれたんですね。

このお寺は、かなり積極的に色々なものを置いてくれているお寺です。
金箔を貼れる薬師如来

大黒天、七福神、六地蔵、道祖神、庚申塔等々
見所満載です。

そしてやっぱり火事繋がりでしょうか
八百屋お七の相手の吉三
自殺しようとするのをとめられ
それよりは出家して、お七の分まで罪滅ぼし、と決め
各地に道や橋を作って償いの一生を送ります。
その道や橋が行人坂だったり、その下の目黒川にかかる橋

念仏を続けていると、お七が夢枕に立ち、成仏したことを告げてくれます。
その場所がこの大円寺なのです。

さあ、2つクリアしたので、いよいよあと4つになりました。

どこ行こう、そうだ!おでかけマップ