[建武]12 新田義貞の最期。ならぬ。武士が味方を捨てて一人で逃げるわけにはいかない

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし
[建武]6 足利尊氏と新田義貞。えっ私?なんでまた
[建武]7 足利新田、そのままにしておけ
[建武]8 後醍醐天皇ピーンチ。えっ、そりゃまた。
[建武]9 生き延びてくれ
[建武]10 いや、その、なんだ
[建武]11 北畠顕家、若きスーパースター
の続きです。

新田義貞
北畠顕家亡きあと、再び、新田義貞の復活が期待されます。

何度もそうだったように新田義貞は北陸の地で蘇り
少しずつ勢力を伸ばしていきます。
越前国の平定に全力を尽くしていました。

足利方の越前国守護・斯波高経を幾度も破り、越前国の制圧を進めていった新田義貞ですが、
運命の日は突然やってきました。

暦応元年(1338年)7月2日。

足利方に味方する平泉寺の衆徒たちが、
新田方の城となっていた藤島城(福井県福井市)を包囲しており、
藤島城を守る新田軍は 苦戦を強いられていました。

新田義貞はまだまだ各地に援軍を割けるほど十分な兵力を有してはいなかったのですが、
「金ヶ崎城の悲劇を繰り返してはならない。
援軍を多くは用意はできないが、味方を助けるべきだ」と、
わずか50騎を連れて藤島城へと向かいました。

ところが、藤島城へ向かう途中の灯明寺畷(とうみょうじなわて)で、
敵である斯波高経の部下たちの300騎と遭遇し、
農道の上で乱戦になります。

新田義貞は援軍といってもわずか50騎しかいませんから、
斯波高経の見回りの軍隊よりも少ないのです。

少数だった新田義貞隊はあっという間に押されていき、
傍の田んぼの中に落とされてしまいます。

ずぶずぶ
田んぼの中にはまって、身動きがとれなくなりました。

まずいっ

誰が放ったのでしょう
名もなき、一兵士の放った矢

ひゅううううう

眉間に命中

家臣たちは瀕死の新田義貞を逃がそうとします

「ならぬ。武士が味方を捨てて一人で逃げるわけにはいかない」 と、
彼らの誘導を断って、自ら太刀を首に当てて掻き切り、自害をして果てました。

こうして時の英雄・新田義貞は、あっという間にその死を迎えてしまうのでした。

享年39。

あまりにもあっけなさすぎて、灯明寺畷でたまたま交戦した斯波軍の部隊も、
その乱戦相手が新田義貞だということを遺骸の確認で初めて知ったほどでした。

新田義貞が討死したという田んぼがどこなのかは、
長らく伝説化していて分からなかったのですが、
江戸時代に新田義貞のものだと思われる兜が福井の農地から発見されたことで、
その地が新田義貞の戦没地と定められました。

その伝承地となっている場所は現在も、
「福井市新田塚町」という住所になっています。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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