[建武]10 いや、その、なんだ

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし
[建武]6 足利尊氏と新田義貞。えっ私?なんでまた
[建武]7 足利新田、そのままにしておけ
[建武]8 後醍醐天皇ピーンチ。えっ、そりゃまた。
[建武]9 生き延びてくれ
の続きです。

退却
退却しようとした新田軍
新田義貞は自らそのしんがりをつとめます。
追っ手と戦いながら、自軍を逃そうとします。
ただ、足利軍はやはり強かった。

新田義貞は何本かの矢を受けてしまいます。
もはやこれまでか

そこに馬で駆けつけたのが、小山田高家でした。
小山田高家は、新田義貞の家臣ですが
かつて義貞から、軍律違反を問われ、罰を受けていました。

義貞様は、退いてもまた好機を作れる方。
このような場所で命を落とすのは、罪人である私のほうが相応しいのです

傷だらけの義貞を抱えて、馬に乗せ、尻を叩いて走らせ
足利軍の前に立ちはだかって、脱出する時間を稼ぎ
壮絶な死を遂げます。

お陰で義貞は逃げる事ができました。

自分をさばいた人間
普通は憎むはずですが
なんという事なのでしょう

一方、京都の後醍醐天皇をはじめとする公家たちは、今さらになって
楠木正成が最初に言っていた、比叡山への脱出をはかります
武士たちも連れて行きますので、京都はガラ空き
足利軍は、難なく京都を奪還いたしました。

小山田高家の機転によって何とか戦場を脱出できた新田義貞は、
後醍醐天皇のいる比叡山の東側、近江坂本(滋賀県大津市)に着いていました。
そして、湊川から散り散りになった新田軍が再び新田義貞の陣へと集まってきて、
新田軍はようやく6000騎程度まで増えました。

そこから、新田義貞はまた、京都を再奪還すべく進撃を開始します。

ところがその激闘の最中、おかしな噂を耳にします。
真相を調べるべく
新田義貞の忠臣・堀口貞満は比叡山に向かいます。

そこで目を疑う光景を目にします。

鳳輦(ほうれん)に乗り込んで今から比叡山を降り
京都へ向かうところだったのです。

どういうことですか
誰のために、義貞殿は戦っておられるのか
その戦地へ何を思って向かわれるのですか

問い詰めると
足利尊氏から和平交渉を受け、和議を結んだとの事

怒り心頭で猛抗議
新田義貞ではなく逆賊足利尊氏のほうが正しい、と言われるのなら
今ここで、我々新田一族50人の首をはねられませ

後醍醐天皇は何の反論もできずにたじたじ

やっぱり何かおかしいと感じて、新田義貞もやって来た

真相を聞いて新田軍の将兵たちは、後醍醐天皇の為されように当然怒りが爆発寸前。
しかし総大将の新田義貞は、後醍醐天皇を前に、
冷静に礼儀を正してその真意を問いました。

そう出てこられると、逆に後醍醐天皇もなすすべなし
かしこまる新田義貞の姿を見て、慌てて陳謝します。

この和睦は、足利尊氏の懐に自ら飛び込み、
時節を伺って再び政権を取り戻すための計略である。
義貞に事前に知らせなかったのは、計略の情報が洩れないようにするためであり、
忠義の新田軍を軽んじたわけではない。
しかし堀口貞満の抗議で、我々も間違いだったと悟った。
許してほしい

苦し紛れのミエミエの嘘ですが
新田義貞はグッとこらえて
「時節を伺って」という言葉に乗っかることにします。

分かりました。
私も早急な京都攻めは一旦中止し
地方で、勢力を拡大しながら、その時を待つことに致しましょう。
ひとつ条件がございます。
私どもに親王様をお預けくださいませ

後醍醐天皇は自分の息子である恒良親王(つねよししんのう)、
尊良親王(たかよししんのう)を新田義貞に預けます。

そして天皇の位を、皇太子である恒良親王に譲ることを伝えました。

新田義貞軍は天皇と行動を共にする官軍ということになります

後醍醐天皇も足利尊氏と手を結んでおいて
実は自分は今は天皇ではありませんー
恒良親王が天皇です
残念でしたー

とうそぶくことが出来ます。

このあとは、天皇シリーズとも行ったり来たりしながら
進めていく事に致しましょう。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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