[建武]11 北畠顕家、若きスーパースター

[建武]1 後醍醐動く。役者が揃いました
[建武]2 私だって、考えちゃいますよ
[建武]3 新田義貞、いざ鎌倉へ
[建武]4 新田義貞。行け行けーっ
[建武]5 鎌倉幕府陥落。不思議といふも類なし
[建武]6 足利尊氏と新田義貞。えっ私?なんでまた
[建武]7 足利新田、そのままにしておけ
[建武]8 後醍醐天皇ピーンチ。えっ、そりゃまた。
[建武]9 生き延びてくれ
[建武]10 いや、その、なんだ
の続きです。

北陸へ
新田義貞は、弟の脇屋義助が国司を務める越前国(福井県)へと向かうことになったのです。
北陸への都落ちでした

10月10日に出立した新田軍は、思わぬ苦難の壁に阻まれます。
例年であればまだ降雪の時期ではないのに、あまりにも早く激しい大雪に見舞われたのです。

木ノ芽峠で猛吹雪が新田軍を襲います。
あまりの寒さにつれてきた馬はバタバタと凍死してしまい、
雪に埋もれて薪を見つけ出すこともできないので矢を折って火を起こさなければならないほどで、
過酷な冷寒地獄は新田軍を大きく消耗させました。

ようやく、気比神宮(敦賀市)の宮司に迎えられて、
10月13日に金ヶ崎城へと入城することができました。

間もなく、足利尊氏によって越前国の守護に任命されていた
斯波高経(しば たかつね)の軍勢が押し寄せて一気に金ヶ崎城を包囲してしまいます。

弟の脇屋義助のいる杣山城からは、なんとか新田義貞軍を助けようとするのですが、
大軍の包囲によってなかなか城に近づけません。
このままでは金ヶ崎城の兵糧も尽きてしまうことは、目に見えています。

何としても杣山城の別働隊との連携を取りたいけれど、
その包囲網の厚さに阻まれ、金ヶ崎城から杣山城に行ける者がいません。

ならば
自分で行こう

嫡男の新田義顕(よしあき)に、恒良親王・尊良親王の護衛と城の防衛を任せます

建武4年(1337年)2月5日。
新田義貞は闇夜に紛れ、わずか数騎を伴って足利方の包囲網の一瞬の隙を突破しました。

杣山城へ入り、金ヶ崎城救援の軍勢を整えるのです。
待ってろよ

ただ、斯波高経の方が少し早かった。
金ヶ崎城を怒濤の総攻撃

義貞の子・新田義顕は討ち死にし、尊良親王は自害を果たしました。
恒良親王も自刃をしようとするも、寸前で足利勢に捕らえられ、捕虜となりました。

新田義貞は、一命を取り留めましたが、
我が子を失い、そして後ろ盾の親王をも失い、流浪の将となったのでした。

今までがそうだったように、それでも新田義貞は
不死鳥のように蘇り、北陸の地で着実に勢力を回復していきます。

そんなとき、足利尊氏と和解した筈の後醍醐天皇は幽閉され
こちらもまた、不死鳥のごとく蘇り、隙をみて逃れ
吉野の地にたどり着き、我こそは正当な天皇なり、と南朝を開きました。
[天皇]北2 光明天皇。じゃあね

足利尊氏としても、最後の決め手に欠ける中、
もうひとり、恐れる人物が動き出します。

北畠顕家(きたばたけ あきいえ)です
奥州の足利方を次々に掃討して、東北地方で一大勢力となっていたのです

北畠顕家は、後醍醐天皇からの、足利尊氏を討て、との綸旨を受け取り
建武4年(1337年)8月、10万の兵を連れて進撃を開始します。

まずは関東へ
関東を制圧されてはならじと、足利方の関東武士たちが、防衛に当たりますが
ことごとく破って行きます。

そして、岐阜まで進んできました。

足利勢としては、一番恐れるのが新田義貞軍との合流

新田軍の勢力を削ごうと、大軍を北陸へ
ところが、新田軍は足利軍に勝利し、北陸で大きな勢力へと広がります。

合流は時間の問題か

ところが、これまた歴史の不思議
北畠顕家は合流のために北陸へ向かうことをしなかった
じゃあ、いよいよ京都へ
いえ、それもしなかった。

なぜか奈良へ向かった

えっ、来ないのね

ならば、と足利尊氏は家臣の高師泰(こうのもろやす)を奈良へと向かわせます。

今度も撃破か

いえ、大激闘の末、
堺浦石津(大阪府堺市)で、
北畠顕家は追撃してくる高師直軍に突っ込み、最後の激突となります。
「石津の戦い」です。

最後の抵抗虚しく、足利方に討ち取られてしまうのでした。
享年20。
あまりに若すぎる戦死でした

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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