[富岡日記]7 頑張る理由。横田家の無念

和田英の富岡日記、やっぱり有名なのか
[富岡日記]2 神様お願い
[富岡日記]3 盆踊りが思わぬ方向に。
[富岡日記]4 やはり七粒も八粒もお付けになりましたか
[富岡日記]5 郵便とやらで手紙を出したら
[富岡日記]6 二日目からダウン
の続きです。

大里忠一
六工社の蒸気で動く機械を発明したのは、大里忠一さん
富岡製糸場等の官営の工場は、いわゆるお雇い外国人がいて
機械も立派なものを外国から取り寄せる。

そこでノウハウを蓄積して、民間に広めていく。
それは間違いではないんだけど
官営と民間では雲泥の差
六工社立ち上げの意欲に燃える大里忠一も先立つものがあまりに乏しい。
外国から機械を取り寄せるなんてとんでもない。

方法はひとつ。自分で作る。
色んなところに聞いて回って何度も何度も試行錯誤
とうとう何とかしちゃった。

そんなだから、立ち上げた会社に対する気持ちの入れようは尋常ではない
それは、その奥さんもそう
大里婦人は、もともと「座繰り」と呼ばれる手動での養蚕糸作りの専門家
何とか力になりたいと、工場にやって来た。

自分でも手出ししちゃう。
手動ではそうかもしれないけど、機械だとそこで繭を煮ちゃいけません。
悪気はなく、いてもたってもいられないって気持ちも分かるので、
誰も「違う」って言い出せない。

そういう時は決まって、英にお鉢が回ってくる
英は、理屈で説得というのもちょっと違う気がした。
英としても、自分が習ってきたやり方以外には分かっていない。
ひょっとしたら大里婦人のやり方の方が良い可能性だってある

考えて考えてひとつの方法を思い付いた。
横浜には、糸を買い付けてくれる外国人がいる
両方のやり方で作った糸を、値段をつけずに持っていこう
その場で値段をつけてもらう。
恨みっこなしで、高い値段が付いた方のやり方に従う。

そういう提案を大里婦人にした。

実際には、実行には移されなかった。
大里婦人が折れたから。

何のために、主人が蒸気の機械を作ったのか
当然機械を使う大前提。
そして、その機械を使ったやり方については、熟知している人が来てくれたんだ。
自分は何をしていたんだろう。
自分を最大限に立ててくれた提案までしてくれた。

ごめんなさい。
もう一度いちから教えていただけるかしら。

思いは一緒。
お互いにそれは分かっているから、すぐに打ち解けた。

横田家の無念
英は、富岡製糸場でも、六工社に来てもずいぶん頑張っている。
六工社では、二日目に体調を壊したにも関わらず、頑張り続けている
大里婦人との一件でも、悪者になってでも品質の高い糸を作りたい一心だった。

実は、そこまでして、という英の行動には訳がある

横田家の無念

横田英のお母さんには九郎左衛門というお兄さんがいた。
横田家はおそらくいわゆる名家だったと思われます。

その長男である、九郎左衛門は
国を憂いていた
まだ江戸時代

もっと国を富ませる事はできないものか。

その方法を探るべく、全国行脚の旅に出た。
鉄道があるわけではない。
徒歩で何年もかけて
食うや食わずの貧乏旅

ある気付きを持って帰ってきた。
全国どこへ行っても、港がある場所以外は富んではいない。

残念ながら、今の長野県松代藩には海がない
でも千曲川がある
越後は大豆の出来ぬ国だから、松代領分の農家で作った大豆を船で持っていく。
逆に鯡・鰯 その他の魚類の肥料を持帰り、農作物の肥料に致したなら、一挙両得
千曲川に港を作ろう。

早速、松代藩に提案。
大変よろしいと許可。但し徳川幕府にも許可が必要とのこと
ここからが大変。
あちこちたらい回しにされながら、その都度付け届けが必要
どんどん金がなくなっていくが国のためと、粘り強く続けていく。

ようやく許可。
許可は出たが、金が出るわけではない。
港を作りたければ、船80艘までの港を作って良いです。
それだけ。

私財を投げ打って、港作り。
これがまた、難工事
何年かかったかまでは記録に残っていないが、1年2年のレベルではない。
大滝という場所なんだけど、そこに小屋を作って住み込み

ようやく不完全ながらも、船が通れるようになった。
初通船で越後からの荷を積んだ船が来たときは、みんなで万歳
松代藩主も大喜びで、望遠鏡で山の上から見ていたと聞いたときには
横田家一同の喜びは言い表しようもありません。

これで、ようやく国が栄える

そんな喜びも長くは続きませんでした。

目を疑う通達が幕府からもたらされます。

「大滝通船差止メ」

???

散々付け届けを受け取っておきながら
松代藩が栄えそうだと分かると
幕府にとっては許しがたいものとなった。

九郎左衛門がどう動いたか
続きはシリーズの次回ね

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[歳時記]9/21 宮沢賢治死去。そういうものに私はなりたい

9/24
「雨ニモ負ケズ」の詩や「銀河鉄道の夜」 「風の又三郎」などの童話で有名な宮沢賢治は、
昭和8(1933)年9月21日、わずか38歳で亡くなった。

賢治は岩手県花巻市生まれ。
農学校の教師や農業技師を務めながら創作活動を続けていた。
だが、生前、そうした作品が評価されることはなかった。
わずかに大正12年に「春と修羅」「注文の多い料理店」の2冊を自費出版したのみ。
それもまったく売れず、なんの反応もなかった。

生涯独身を通して貧しい生活を送った彼は、亡くなるときもひっそりと世を去った。
父が見守るなか、水を飲み、自分でガーゼで体を拭き、
ぽとりとガーゼを落とすと静かに息を引きとったという。
自分の死期を予感していたのかもしれない。

銀河鉄道の夜は、法華経の精神
ジョバンニとカムパネルラでしたね
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」

雨ニモマケズ
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けない
丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れず
よく見聞きし 分かり そして忘れない
野原の林の下のかげの
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供がいれば
行って看病してやり
西に疲れた母がいれば
行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人がいれば
行って怖がらなくてもよいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

これは、宮沢賢治が世の中に発表しようとして書いた文章ではない。
自分の手帳に、日記的に書いたもの
家族も知らなかった手帳が死後に偶然に見つかった。

そもそも、宮沢賢治は詩人ではない

この詩は、戦前から戦中にかけて盛んに使われた。
ただ、その時は、「1日に玄米4合」の部分は改ざんされていた。
満足に食べられない時代に4合は多すぎる

我々の感覚でも、1日に4合?って思うんだけど
江戸時代の資料とか見ていると、4合とか6合とか平気で食べている
おかずがろくなものが無い。
ご飯と味噌汁と漬物だけという日も多い。

この詩を書いたとき、宮沢賢治はほぼ病気で寝たきりだった。
立って歩きたい。
それが切実なる願望

もし、それが叶ったとしても、少し風が吹けば倒れてしまうだろう。
普通に歩ける人なら、雨や風ごときには、余程でなければ負けない訳だけど
それは叶わぬ事だった。

1日4合なんてとんでもない。
でも、賢治にとっては、やっぱり4合って書きたかった。
そこは、改ざんしちゃいけない部分だと思う。

切実な願望から始まるけど
後半にかけて、どうだろう。
やっぱり、自分の事なんてどうでもいいや、って
気持ちが変わっていく。

銀河鉄道の夜でテーマだった「ほんとうのさいわい」

皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに 私はなりたい

[歳時記]シリーズはこちら(少し下げてね)

[首相]27-2 東条英機。辞表はどうしましょう。

[首相]27 東条英機。南無阿弥陀仏を20回唱えて寝ているよ
の続きです。

関東軍
関東軍の参謀本部長となる
日清戦争で、中国の遼東半島の旅順と大連が日本の委任統治下になる
関東軍とは、その旅順と大連に常駐している日本軍

日本から距離的に離れていることもあって
日本の参謀本部の言うことを聞かない、暴走ぶりが目立っていた。

東条英機が参謀本部にいるときは、
関東軍の石原莞爾(いしわらかんじ)が言うことを全く聞かず
ついには、1931年には、満州事変を起こす。

その関東軍へ

ところが、関東軍に来てみると不思議なもので
途端に気持ちが好戦的になる

ソ連軍の脅威があるように感じ
日本の参謀本部へ、しきりにこちらから先制攻撃すべきだ、と打電
ソ連へ、蒋介石率いる国民政府へと。

歴代関東軍首脳部がかかった、陸軍中央部を無視する満州独特の「熱病」に陥った

打電の10日後に、ソ連軍とちょっとした小競り合いがあった。
すると、熱病にかかっている東条は、独断で一個師団を送りこんだ。
しかも悪いことにウラジオストクからやってきた砲艦まで攻撃

やってもうた

明らかな権限逸脱行為
かつて押さえる方の立場だったからすぐ分かる
辞表を準備した。

そうこうしているうちに、1937年7月7日が来る

盧溝橋(ろこうきょう)という場所で今度は中国軍と小競り合い
これはいわゆる手違いの類い。
なのに、現地の兵士達はいらんことしちゃっているらしい。

終わったぁ

タイミングが悪すぎる。
かつて先制攻撃すべきだなんてなこといっているし
辞表を書くべきほどの事をやっちゃったすぐ後だし。
全て自分のせいにさせられる。

ところが、参謀本部の方で不思議なことが起きる。
意見が割れた。
あの石原莞爾は立場逆転で、今は参謀本部にいるんだけど
事を起こすことに大反対。
でも、このきっかけで中国に戦争を仕掛けてしまえ、という意見も出ている。

最終的には、首相の近衛文麿の判断で、「行け」っという方向になった。
太平洋戦争まで含めて15年戦争と言われる始まりの「日中戦争」(支那事変)に突入する

辞表どうのこうのと全く違うレベルになってしまった。
東条自身も兵を率いて、戦地に向かうことになる。

最初、東条は関東軍の精鋭舞台が向かえば、ほどなく決着すると楽観視していた。
でも、事はどんどん大きくなっていき、泥沼化していく
最初は日本政府は北支事変と呼び局地戦と考えていたが
中国全土へ広がりを見せ、支那事変と名前を変える。

参謀本部の方では、意見が分かれて採用されなかった方の石原莞爾を
煙たく思うようになっていた。

いまこそ君の力が必要だ、ってな事を言って
石原莞爾を関東軍に体よく左遷する。
関東軍参謀軍副長
東条英機のすぐ下。

今まで一度たりとも意見が合ったことが無い。
異常なほどに頭の切れる石原莞爾と
はっきり言って戦争の事が良く分かっていない東条

一刻も早く日中戦争をやめるべし、と思っている石原
かつて満州事変を起こした事を棚に上げて、と言う気もしますが。
一方で気持ちがノリノリになっている東条
毎日のように大喧嘩
というか、東条としては、口では絶対に勝てないので
ひたすらに無視。

日本国内では、改善が見られない日中戦争の状況に
近衛文麿首相は、陸軍大臣の杉山元に責任を取らせようと考えた。

後任として考えたのが石原莞爾。
ただ、正直石原は敵が多すぎるので
石原に近い、板垣征四郎
固辞する板垣を説得して納得させた上で
退任を渋る杉山元に再度強く迫った。

分かりました。ただ、ひとつ条件があります。
人事です。

分かった、言ってみろ。

次官として、東条英機を採用していただきたい。

えっ

続きはシリーズの次回ね

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

渋谷区の郷土博物館に行ってきました。

日本書紀を見てきました。
の続きです。

常盤の松

常盤が植えた樹齢400年の松があった場所

常盤と言って思い浮かぶのは二人いて
一人は、源義朝の妾で、源義経のお母さんの常盤御前

もうひとりは、あの白鷺伝説の世田谷城の常盤姫
白鷺伝説

どちらの説もあるようですが
近くに渋谷城があるので、本人が植えたかどうかは別にして
やはり常盤御前の事を言っている気がします。

残念ながら工事中で、アミアミがかかっており、必死で覗かないと見えません。
一生懸命ピントを合わせて撮りました。
本来ならその横にこんな碑があるはずです。

この場所はもうひとつ重要な場所で
あの天璋院篤姫が、明治維新以降に済んだ場所のひとつ。
明治維新以降は何ヵ所か引っ越しているんですけどね。

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

一番古い時代から行くと、ナウマン象の化石
なんと、原宿駅のすぐ下で地下鉄の工事をやっているときに見つかった。
それも丸々一頭分。

その場所の再現

このパネル良くできていて、ちょっと見る角度を変えると、二通りに見える

江戸時代まで含めて、どーんと省略
渋谷区って不思議なことに、ナウマン象から明治までの間にほとんどネタがない

江戸時代も、各藩の下屋敷がいっぱいあったというくらい

明治時代
明治になって玉川上水の水を淀橋浄水場まで水を送るための管を作った


新宿区のイメージだったけど、渋谷区だったんですね

明治維新のすぐあとは、一気に都会化したわけではない
基本的にまだまだド田舎
下屋敷が引き上げられちゃった広大な土地がある
お茶や桑畑や牧場
渋谷茶のブランドは一時期は一世を風靡する
明治22(1889)年に東海道線が全面開通すると、宇治茶が大量に入ってきて
急激に廃れちゃうんですが。

牧場については、牛乳は、江戸時代は飲む習慣がなかったけど
明治になって急速に普及
初めは、保管技術がないので、消費地に近い渋谷区とかで作ってすぐ販売しないといけなかった。
明治36(1903)年に、警視庁が牛乳搾取業取締規則なるものを作り
この辺までは、牧場をこれ以上大きくしては行けません、となる
仕方ないので、もっと郊外に移っていくことになります。

工業分野でも広大な土地を活かして工場が多くできました。
代表格はやっぱり恵比寿ビール

代々木公園のところは練兵場でした。
ここで、明治43年、日本で初めて飛行機が飛んだのです。

昭和
昭和になって太平洋戦争

あのハチ公すら
金属供出でなくなっちゃったんです。

お別れ式

地下には、文学館がありました。
渋谷区に住んだことのある文豪はこんなにいっぱい

与謝野晶子

志賀直哉

他にもいっぱいいっぱい

最後、「渋谷区の名所」とか「渋谷区の文化財」みたいな本を買おうと思ったんですが
なんとありませんでした。
企画展の本しかない。
郷土博物館にその手の本が無いというのは、ひょっとして初めてかも。
仕方ありません。

外に出ると雨は止んでいました。

[おでかけ]シリーズはこちら(少し下げてね)