[首相]27 東条英機。南無阿弥陀仏を20回唱えて寝ているよ

とうとう、首相シリーズ、太平洋戦争に突入ということになります。

東条英機
陸軍出身。首相在位、1941~1944年

「東条英機 大日本帝国に殉じた男」という本を読みました。
その本を元に書いていきます。

元は盛岡なんだけど、父英教の時に上京
英教は陸軍でエリートだった。

そんな父に憧れ、幼いときから、陸軍に行くんだと決めていた。

軍出身で首相になった人は、戦争で功を上げた人、というのが多いけれど
東条英機くらいの世代になると、多感な時期に日清戦争日露戦争を経験しているものの
実際に戦地に赴いてはいない、という人も多い。

活躍したのは父に過ぎない。

父に比べると、陸軍に入っても鳴かず飛ばず
出世も少しずつ少しずつ

ひとつの転記になったのはドイツへの留学。
奥さんとはラブラブで、頻繁に手紙のやり取り
出した手紙にちゃんと返信があったかをチェックするため
手紙の右上に通し番号を付け、何番の手紙に対する返信がいつ着いたかを
チェックしながら消し込んでいく

奥さんは新人深いので
毎日寝るときに南無阿弥陀仏と10回唱えてから寝てくださいね

大丈夫だよ
寝るときに、南無阿弥陀仏を20回唱えて寝ているよ。

ドイツなので、この時期メキメキ頭角を表してきたヒトラーに影響を受けている。

長く反目し合う米内光政ともこの時ある程度一緒に仕事している。

一番大きな出会いは永田鉄山

陸軍内の派閥、統制派を後に率いる事になる大物

長く永田に影響を受け、その元で行動することになるのだが
特に彼の考え方に心酔したというほどのものでもない。
当時、山県有朋から始まる陸軍内での長州閥が圧倒的。

元が盛岡だということがあるので、面白くない。
長州閥に対抗しようとしていた永田に、その部分だけ魅力を感じた。

対長州閥ということで、若手が会合を持っていくのだけど
彼らが担ごうとしていた、荒木貞夫や真崎甚三郎は
その中でも過激なメンバーから信奉される

皇道派と言い、天皇がもっと実質的に政治を行うべし
陸軍はそれをバックアップし、手段として軍事クーデターも辞さない

手段としてそれはおかしいと考える永田は、
次第に路線対立が明らかになっていき
統制派と呼ばれるようになる。

皇道派からは、永田に近しい東条は統制として見られる

皇道派が力を持ったときは、統制派とされるメンバーが粛清人事の浮き目に合い
逆になると逆の人事と、粛清の応酬

ドイツから戻った東条は、永田の引きで陸軍内に目を配る役割となり
皇道派が行おうとしたクーデターを事前に察知し
未然に防いだ。

そうなると皇道派から強烈な攻撃対象
久留米に島流しに近い形で赴任させられる。

それでも、東京から離れた事で
直接的な派閥抗争からは距離を置けたと言える
この時点で既に50代の大台に乗ろうとしていた。

皇道派に相沢三郎中佐という人物がいる
狂信的なところがあり、台湾への転任の辞令を受けた。
彼は、この人事を統制派が仕組んだものと考え
永田の殺害を計画する

天誅!

即死だった。

とうとう、軍内部での派閥抗争は殺人事件にまで発展した。

1935年、東条は、満州の関東憲兵隊司令官に任ぜられる
位的には上がったので、栄転と言えなくもないが遠く異国の地なので微妙なところ。

そして、年が開けた1936年2月26日
内地から報せが届く。
皇道派によるクーデター、2.26事件。

とうとう起きてしまったか。
東条には予感があった。

東条は迅速な対応。
満州内での皇道派メンバーに対する粛清人事

結果としてここから大きな転機が訪れ
永田亡き後の統制派を東条が仕切ることになり
一気に力を失った皇道派に反比例し
東条が力を持っていくことになる

まだまだ続きますので
この続きはシリーズの次回ね

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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