[庭] なんで花が

[庭] 野菜作りを仕切り直し
[庭] 順調に育っています
の続きです

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トマトがすごいことになってきました
真ん中がトマトで、1m近くに成長

トマトに比較すればですが
キュウリは、頑張っている最中
イメージでは、キュウリネットに絡まりつつ伸びていく、って思っているのですが
髭みたいなのは出ているのですが、ネットにうまく絡まってくれないんですよね

と思っていたら、今朝
ありゃりゃ
花が咲いているじゃないの

背丈的には全然なのに、どうなっちゃうんでしょうか

ナス
元気がないわけじゃないけれど
大きくなってくれない
まあ、これからなのかなあ
と思っていたら、今朝
ありゃりゃ
まさかの
こっちもつぼみが


こんなにちっちゃいのに、なんとしたことか

咲きたい時に咲く
これが俺の流儀さ
何か文句あんの?

はい、失礼しました

新入りがやってまいりました
ミニトマトです
カミさんがお弁当に入れたいからと、苗を買ってきた

植えましょう

2つある奥の方の畝
日当たりが良くないので、去年、全滅だった
仕方ないので、今年は手前の畝だけでやろうと思っていたんですが
場所がないので使わざるを得ません

ごめんね
ミニトマトちゃん
悪気はないの
環境に負けず、育っていただけると、おじさん嬉しいな

ポットに種を植えていた、トマトとカボチャとナス
いつまでたっても芽が出なかったので完全にあきらめておりましたが
何か出てきたぞ

草だと思ってはいたけど、二葉のあと、本葉が出たのを見ると
これは、苗のトマトと似ている
トマトなんじゃなかろうか
ってことで、奥の方の畝に植えてみました
奥の畝はダメ元でございます

さらに、茎が紫がかっているのがあったのでナスかな

種からシリーズの中で、いけるかも、ってのがカボチャ
ポットから、プランターに植え替え
プランターは、日当たりが確保できます
さらに、去年大成功だったオクラ

左がカボチャで右がオクラ
奥の方もオクラだけど、奥の方はいまいちかな

みんな頑張れ

[庭]シリーズはこちら(少し下げてね)

[勝海舟] 明治の勝海舟

[勝海舟] 不良父ちゃんだったけど
[勝海舟] 船の上で死ぬなら本望
[勝海舟] 西郷隆盛や坂本龍馬との出会い
[勝海舟] 海舟は千両箱なり
[勝海舟] 江戸城無血開城。江戸焦土作戦
の続きです

明治になって
江戸城無血開城という大仕事を終え、明治になる
上野戦争や戊辰戦争は続くが、勝海舟は加担していない
徳川家は田安家の家逹(いえさと)が家督を継ぐ
駿府藩主、その後静岡藩知事になる

海舟は家逹に仕え、静岡に行く
15代将軍慶喜は水戸で謹慎したあと、静岡に移っている

静岡にいる間も何かと呼び出され、度々東京に出向いている

明治4年、廃藩置県
家逹は静岡藩知事でもなくなり、海舟や慶喜と共に東京に戻っている

その後、家逹は天璋院篤姫に養育されている

私は明治になってからの勝海舟が一番好き
性格がよくあらわれている人生だと思う

海舟は、新政府の要請を受け、様々な要職につく
新政府は度量が大きいと言いますか
幕臣を起用しています
本来ならば敵な訳で、起用するのは変なんですが
榎本武揚、勝海舟、渋沢栄一、徳川家逹も

海舟もおさまりが悪かったんでしょう
どんな職についてもすぐに辞めちゃっています
就いている間も特に何をするわけでもなく、めくら判を押すばかり

では、明治における海舟は、意味を持っていなかったかというと、そうではない
一言でいうと「なだめ役」

新政府はかなり強硬に改革を進めていったから
もっと暴動が起きそうなもんだけど
そこそこで済んだのは海舟の存在が大きい

最終的に幕府の代表を務めたのが海舟だったから
新政府に不満を持つものは、たびたび海舟の元へ伺う
そのたびに、特有の性格と江戸弁でのらりくらりといなす

なだめ、が効かなかったのがひとつ
江戸城無血開城交渉で心が通じ合った仲の西郷隆盛
結局西南戦争に走ってしまった事に

新政府はあなたが代表者だったじゃない
なんで、そうなるの

残りの人生の多くを「名誉回復」に費やす

西郷隆盛
そして
徳川慶喜

自分の事より、誰かのために

上野に西郷隆盛の銅像が立ち
徳川慶喜は、「徳川慶喜家」の創設を許され、寛永寺の敷地に墓を立てることもできた

洗足軒
田町での江戸城無血開城交渉のあと、さらに具体的な交渉のために
池上本門寺に向かうとき
危険な目に会い、逃れたのが洗足池

その時に目にした洗足池の風景がとても気に入る
後に、洗足池のほとりに土地を買い
洗足軒と名付けて移り住む

晩年は、気の会う仲間たちと、和歌を詠んだり、魚釣りをしたり
せがまれて撮った写真

77歳で他界
慕う人たちが、行列をなした

洗足軒があった場所のすぐ近くに、自らデザインした墓が立っている

さらにその近くに、西郷隆盛を讃える碑が立っている

[人物]シリーズはこちら(少し下げてね)

[三種の神器] 本当はどこにあるのか

[三種の神器] えっそうだったの?
[三種の神器] 八咫鏡はアマテラス
[三種の神器] 八咫鏡。どんな形?
[三種の神器] 草薙剣。不思議なことだらけ
[三種の神器] 草薙剣。その姿は
[三種の神器] 八尺瓊勾玉って何の形?
[三種の神器] 八尺瓊勾玉の意味するところ
の続きです

三種の神器シリーズとしては最終回になります

三種
これまで、三種の神器を個別に2回ずつ書いてきましたが
改めて「三種」の意味について考えます

神器は10代崇神(すじん)天皇の時には「鏡」と「剣」の二種だった
三種になったのは、古事記・日本書紀に書かれてから
すなわち、天武天皇が決めた、と言える

もっと前、三種の神宝はあったと思われる
「銅鐸(どうたく)」「銅剣」「銅鏡」

銅鐸は歴史の教科書などで馴染みはあるが
ある時を境に、パタっと消えてなくなる

古事記・日本書紀には銅鐸は一切触れられていないので
その頃には、人々の記憶から、銅鐸は消えていたと思われる

用途は推測に過ぎないが、宗教儀式に関わるものだろう
宗教や文化の大革命が行われたのだろう

銅鐸が無くなることにより、二種になるが
主役は「鏡」になる
勾玉が三種に仲間入りしても、銅鐸に取って変わるというものではなかった

三種の王器、の発想はもともと中国のもの
中身は、全く日本とは異なる

考え方をいただいて、日本でも三種の神器とすべく、天武天皇が決めた
「考え方」の中心になるのは、道教の思想からの陰陽道(おんみょうどう)になる

陰と陽なので、太陽の象徴の鏡だけではバランスが取れず
月の象徴の勾玉を三種の神器に入れたかった

御霊(ごりょう)信仰
日本には古くから信じられた御霊(ごりょう)信仰なる考え方がある
征服した敵は祟り(たたり)をなす
でも、その象徴を手厚く祀る事で、強力な守護神となる

三種の神器は崇神天皇の時に祟ったために、宮中から外に出し、伊勢神宮に移した
古事記・日本書紀には、鏡と玉が書かれているが
ヤマトタケルは伊勢神宮で草薙剣を賜っているから
少なくともその時期までには、剣も伊勢神宮に移っていたことになる

祟りをなしたということは、元々征服した敵の象徴たるものだったのだろうか
明確にそう言えるのは、草薙剣だろう

ヤマタノオロチを退治した時に尻尾から出てきたのが、草薙剣(正確には、天叢雲剣)
退治した時に使われた十拳剣(とつかのつるぎ)ではない
ヤマトからすると、征服した相手は出雲だろう

勾玉については、ニギハヤヒの象徴だったと思われる

分からないのが八咫鏡(やたのかがみ)
これはまさしく天照大御神の象徴なので、征服した相手ではないはず
祟りが起こるはずがない
ひょっとすると、天照大御神自体も、征服した相手だったということも考えられなくはない

さらに、謎として残っているのが、祟りをなして、伊勢神宮に移ったはずの勾玉の本体が、宮中にあるということ
八咫鏡の本体は伊勢神宮にあり
草薙剣の本体は熱田神宮にある
宮中にあるのはその分身

なぜ、いつの間にか、勾玉だけが宮中に戻ってきたのか
祟りは大丈夫なのか

剣璽御動座(けんじごどうざ)と言って、天皇が1日以上皇居を離れる時は
剣と玉は一緒に持っていく
鏡は動かない
場所で言っても、鏡は賢所という宮中三殿の真ん中の建物に厳重に管理されている
剣と玉は、天皇の寝室の隣の剣璽(けんじ)の間
どうも、鏡を一番重視しているように思える
勾玉だけは本体なのに、なぜ最重視されないのか

三種の神器の作者、戸矢学さんは、ある推論を展開している

八尺瓊勾玉の本体は、皇居にはなく、伊勢神宮にある
皇居にあるのは、その分身

祟りがあるはずの勾玉の本体が帰ってきたという記述がないのに、本体が皇居にあるという経緯が不明だし、理由もない
本体なんだったら、剣璽御動座で動かすはずがない

なるほど、バランスとしてはそうかもしれない
天皇と言えども、三種の神器は見てはいけないのだから
伊勢神宮の神器が八咫鏡だけだというのは、誰にも分からない

[神と仏]シリーズはこちら(少し下げてね)

[日本語の発音] 漢字仮名混じり文の開発

[日本語の発音] 奈良時代に母音は8個あった
[日本語の発音] ハヒフヘホはパピプペポ
[日本語の発音] 発音通りに書いた時代
[日本語の発音] ゐ、ゑ、を
の続きです

鎌倉時代

平安時代の前半では、発音と文字が1対1で対応していたのに
平安時代の後半になると、発音が変化したのに文字はそのままという状況が発生した
ゐ、ゑ、をの問題と、は行の2音目以降の問題

現在の我々が古文を読みにくいように
鎌倉時代の人たちは、平安時代の前半に書かれた文章をかなり読みにくかったと思われる

何とか読みやすいように、考え方を変えようと立ち上がったのが
百人一首の編纂者で有名な藤原定家大先生

それまでと、日本語の書き方を大きく変えてしまうのだから
さすが大先生

昔、漢字しかなかったところに平仮名という大発明がなされたのが平安時代
あまりの便利さに、誰もかれもが、平仮名で文章を書くようになった
言い換えると、ほぼ「平仮名のみ」で書くようになった

下は、源氏物語絵巻

『源氏物語絵巻』
九月のつこもり
なれは紅葉のいろくこきませし
もかれのくさむらくにをかしく
みえわたるにせきやよりさとく
つれいてたるくるまたひすか
たともいろくのあをつきくしき
ぬひものくくりそめのさまくさるか
たにをかしくみゆ御くるまはす
たれうちおろしたまふてかのむかし
:
:

ごく一部の例外を除いては、ほぼ全てが平かな
改行の位置は、言葉の途中であろうがお構い無しで、下まで来た段階で改行
「、」や「。」も無い
濁音も記載されていない

我々の感覚からすると、よくもまあこれで意味分かっていたなあ、と不思議

「、」や「。」や濁点の開発はもう少しあとになりますが
読みやすさ大革命を起こしたのが藤原定家
まず、漢字仮名混じり文

ゆふきり
ひるのおましにうちふしたまへる
にこの御かへりもてまいれるかれ
いにもあらすととりのあとのや
うなれはとみにもえみときた
まはぬにへたてたるやうなれと
いとゝくみつけてはるよりてうし

ひるのおましにふし給へりよひすくる
ほとにそこの御返りもてまい
れるをかくれいにもあらぬとりのあとのやう
なれはとみにも見とき給はて御となふらちかう
とりよせてみ給ふ女君ものへたてたるやうな
れといとゝく見つけ給うてはひよりて御うしろ

そして、その後
言葉の区切りで、改行するように工夫がなされるようになる

上の文章を見て、あれ?と思われたかも知れません

定家本と言われる定家の書き写した書き物は
完全に100%オリジナルと同じではない

漢字に書き写すということはそれ自体、本文の注釈を意味する
そして、その過程で、少し、本文を変えてしまったりもしている

例えば、土佐日記の冒頭
をとこもすなる日記といふものををむなもして見むとてするなり

をとこもすといふ日記といふ物をゝむなもして心みむとてするなり

おそらく、「すなる」は定家の時代には、文法的に使われなくなっていた
要するに、今であれば「現代語訳」

定家はそんな色んな提案をしていき
漢字仮名混じり文は、それ以降完全に定着していく

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)