[源平]13 一頭死んでますけどーーっ

[源平]1 武士の始まり
[源平]2 八幡太郎義家ここにあり
[源平]3 どっちにつこうかプレゼント大作戦
[源平]4 保元の乱(源平編)
[源平]5 平治の乱
[源平]6 平清盛快進撃
[源平]7 平清盛。おごれるものは
[源平]8 神戸に都を?
[源平]9 源頼朝、立つ
[源平]10 勝利のあとの惨敗
[源平]11 何で勝っちゃったの?
[源平]12 首ねぢ切つて捨ててんげり
の続きです。

いよいよ、源氏と平家の対決になります。

木曽義仲を滅ぼし、
機は熟した。いよいよ平家との直接対決。

とはいえ、頼朝は自分で動くわけではなく
弟の義経や範頼(のりより)にやらせる訳ですが。

一の谷の戦い
平家が陣取っているのは福原。今の神戸です。

神戸って地元なので分かりますが、前が海で後ろが山のせまーい土地
その狭い入口をかためてしまえば、もう海からしか攻めてこれない。
平家は海での戦いは大得意なので、そっちにもっていきたい。

範頼さん、海沿いの正攻法でお願いします。
私の方は、山から行きますね。

義経軍は山へ。

ちょっと、若!
ここ、崖ですやん
降りれませんけど

そうか、そう思うか
お前がそう思う、ちゅうことは平家もそう思うっちゅうことや
そこから現れてみぃ
大パニックやで。勝ったも同然

そうかも知れませんけど、出来ることと出来ないことがありますわ。

(実家に帰ったとき行ってみましたよ
こんなとこ。恐っ。当時は階段なんて無いし)

ちょうど鹿が2頭いたので、崖から落としてみました。
1頭は落ちて死んじゃいましたけど
もう1頭はうまく降りれました。

鹿が降りれた。我々の馬が降りれない訳がない。

一頭死んでますけどーーっ

ものども続けーっ

えっ、自ら先頭で行くんかい
我々も行かなしゃあないがな

な、なんじゃあぁ
置いていた船で海へ逃げるのがやっと

敦盛の笛
パニックで手薄になったので、範頼軍も突入出来た

その中で熊谷直実という武将
元は平家で源氏に寝返ったので、今回の戦で功をあげて信頼を勝ち取りたい。

立派な鎧を来た平家の武者を見つけました。
あの鎧ならさぞ名のある武将に違いない
一騎討ちを申し込みます

私は熊谷直実と申します。あなた様は?

私は名乗るのはやめておきましょう。
あなたの敵として十分なものです。
もし私が首を取られたなら、誰もが名前を分かるでしょう。

一騎討ちは直実が勝利
首を取ろうと兜をはぎ取ると、
自分の子供とほぼ同じ歳の美少年
これは取れない
逃がしてやろうとしたが、後ろから梶原景時がやって来た
逃げるのは無理か
だとすると、自分が首を取り、末まで弔ってあげよう

覚悟

首を取った後、良く見ると腰に笛が差してある
ああ、あの笛か

実は、昨日の夜、平家の陣から、見事な笛が聞こえてきた
戦の地でありながらなんと風流なことか、と一同感心していた。

笛の主は敦盛。平清盛の弟経盛の息子でありました。

その地、須磨寺にも行きましたよ
これが直実と敦盛

笛がこれ

この二つのエピソードが、戦の戦い方の違いを表していると言える

範頼は従来の戦い方
やあやあ我こそは、と基本的に一騎討ちが中心

その戦い方をガラッと変えたのが義経
大量に人を投入し、それまでなら卑怯と言われていたような、急襲とかで勝利を勝ち取っていく。
本人自ら勇猛果敢に真っ先に突っ込んでいくタイプ。

強いのは強いし、人気は出るのだけど
従来のスタイルの武将たちからは疎まれる存在

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[歳時記]6/24 林檎忌。美空ひばりの命日

6/24
平成元(1989)年6月24日、美空ひばりが亡くなりました。
あれから32年か。ずいぶん経つんですね。

色んな歌謡曲の歌手がいるけど
やっぱり美空ひばりは超えられないです

1988年4月11日
東京ドームの不死鳥コンサート
東京ドームのこけら落とし

不死鳥の如く復帰して、ということだったけど
本当はとても歌が歌える状況ではなく
舞台裏には酸素ボンベとベッドが置かれていた。
小さな段差も上れないから、舞台はゆるいゆるいスロープ
でも、最後に歩ききった花道は100m近くもあった。

でも、39曲歌い切ったものなあ
「美空ひばり」としての執念

でも、今回その不死鳥コンサートを調べていて
あれ?そうだったっけ、と思うことがあった。

愛燦燦は歌っているが、川の流れのようにが歌のリストにない

もしかして、と思って調べると
そうだ。川の流れのように、は、1989年1月11日発売
あの後だったんだ

大ヒットし、最大のヒットの柔に次いだ
そして、亡くなった後も売れ続け、柔を抜き、彼女の最大のヒット曲になった

意地でも、復活コンサートを為し遂げたけど
その後、やっぱり亡くなってしまった、と思い込んでいた。

本当に復活していたのか。
本当に復活して、あのあと最大のピークを作り上げたんだ。
やっぱり美空ひばりはものが違う。

♪知らず知らず 歩いてきた
細く長い この道
振り返れば 遥か遠く
故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように ゆるやかに
いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく
空が黄昏(たそがれ)に 染まるだけ

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[首相]22-3 石原莞爾とは、何だったのか

首相シリーズ、林銑十郎まで終わり、次は近衛文麿
日中戦争に突入していきますが
その前に、重要なキーパーソン、石原莞爾(いしわらかんじ)について書きたいと思います。

石原莞爾(いしわらかんじ)
極端に頭が良い。いっぱい敵を作るタイプ
「昭和陸軍には上官が部下に持ちたくない将校が二人いた。石原と辻政信である」
上司だろうが関係無い。間違っていると思うと完璧に論破する

陸軍大学校では最優秀の成績だった
最優秀の者は天皇の前で、戦略論を披歴する機会が与えられるのだが
何を言い出すか分からないので、無理矢理次点だというふうにすり替えられてしまった。

当然、陸軍でトントン拍子に出世していくのだけれど
ある程度まで行くと敵が思いきりいるのでそれ以上が難しくなってくる
もちろん強烈なファンもいるのだけれど

そんな石原莞爾の事を病的なまでに嫌ったのが東條英機
年齢的には東條の方が4歳上

昭和12(1937)年9月、石原は参謀本部作戦部長の職を解かれ、関東軍参謀副長に転じた
日本全体の作戦部長から、関東軍の参謀長の下へ
どう考えても左遷
しかも、関東軍の参謀長は東條

隣の部屋なのだが滅多に顔を合わせない
部下が作成した文書を石原のところに持っていくと
鉛筆で丁寧に書き加え、推敲していく。
その後、東條のところに持っていくと
顔を真っ赤にして、消しゴムで石原が加えた鉛筆書きを全て消す。

東京裁判
石原莞爾は東京裁判に戦犯ではなく、証人として呼ばれている。
発言を許されて

「満州事変の中心は自分である。満州建国にしても自分であるのに、なぜ自分を戦犯として逮捕しないのか不思議である」

検事からは、証人として呼んでいるのであって、個人的意見は述べなくて良い、と制された。

石原が訴追されなかったのは、日中戦争に反対、
太平洋戦争にも反対していたことが明らかであり、
東條政権と徹底して対決した点が挙げられる。

あなたは、東條英機と対立していたのではないか、という問いには

対立したということはない。
東條には思想も意見もない。私は若干の意見も持っていた。
意見のない者との間に対立があるわけはない。

日本の戦犯を見るに国際裁判に付する値打ちがあるものはただ一人もいない。
まるで、犬のようだ
今や戦争に勝って大国となったアメリカが犬を相手にしたとあっては物笑いの種である
裁判をやめてアメリカに帰ってはどうか

石原は自らが関わった満州国が、日本のかいらいになっていくのが許せなかった。
「世界最終戦論」というのが彼の思想だった。
欧米の長たるアメリカとアジアの長たる日本が最終戦としての戦争を行い
その後に世界に恒久の平和が訪れるというもの

彼のイメージからは、日中戦争も太平洋戦争も全く意味のない戦争だった。

ただ、太平洋戦争が終わり、石原も反省している
日本がアジアの長であるというのは、思い上がりだったと。

東條の戦略は戦略ではなく、精神論一辺倒だった。
戦争は負けたと思ったときが負けであり、そう思わなければ負けはない
いかに戦力差があろうとも、日本国民が本当に本気を出せば逆転勝利が訪れるのだと

石原から見て、全く聞くに値しない考えなのだけど
東條は人事の全権を握り、その考えに異を唱える者は徹底して左遷していく
そして、日本全体を根拠のない精神論一色に変えていく。

勿論戦争自体が間違いなのだから
石原の戦争論が正しいというつもりはない
仮に、石原の主導のもとで戦争を緻密な理論のもとで戦って
勝ったとすると、日本はさらに間違った方向に向かったのかも知れない。

ただ、我々が知るべきなのは、
違う考えを声高に唱えるものもいるにはいたということ

歴史から学ぶべきことがあるとすると
それがどう潰されていったのかという過程かという気がする。

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[寺社建築] 寺の建物の名前

お寺には色んな建物があります。
それぞれ何のためのものでしょうか

本尊(ほんぞん)
本尊を安置する建物を、金堂(こんどう)・仏殿・大雄宝殿・本堂などと呼びます。
仏、大雄、はお釈迦様の尊称なので
全て、お釈迦様のいる場所、という事です。

金堂と本堂ってどう違うのかなとずっと疑問に思っていました。
日本史の本には必ず寺院の配置の移り変わりみたいな図があって、金堂となっているのに
実際に歩き回ってみると、金堂という表現を目にすることがなく、本堂ばかり

唯一、国分寺で金堂跡地、だけ
謎が解けました。
時代が違うんですね
金堂は奈良時代以前の呼び名
中国にも朝鮮にもその呼び方はないので、起源は分からない
仏像が金色だからなんでしょうね

この頃は、金堂には基本的に人は入らず
法要や儀式は金堂の南面に舞台を仮設して行っていました。
堂内には、華や供物をそなえる時のみに入った。

平安時代以降は、本堂と呼び方が変わりました。
役割も変わった。
金堂の頃は建物内部は仏様のものだったけど
本堂になると、
仏様と衆生(一般の信者)、そして間を取り持つ僧が全て同じ屋根の下
雨の多い日本ではとてもありがたい。

僧が議論するところが、講堂や法堂

唐招提寺の講堂

座禅の修業をするところが、僧堂や禅堂

東福寺の禅堂

僧の師弟が同居して法を伝える場所が僧房
小さな部屋が連なった建物でした

法隆寺の旧僧房

そこから独立して住まいを持つようになると
子院とか塔頭(たっちゅう)とか呼ばれます。

南禅寺の塔頭

お経を納めておくのが、経堂や経楼
堂や殿は最高級の建物
殿の方が若干格上のイメージ。
楼は2階建て

中世末期に出来た金閣寺や銀閣寺は本格的な楼閣建築ですが
それまでは楼と言っても単に二階に登れるだけで、一階は使われていない。

鐘楼(しょうろう)は時を告げるための鐘があり
太鼓で時を告げる場合は、鼓楼

東大寺の鐘楼

塔はお釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めてあるよという標識
塔婆(とうば)の略です。

五重の塔、三重の塔、多宝塔など色々あります。

法隆寺の五重の塔

塔は木造の建物以外にも石塔もあります。
宝篋印塔や五輪塔など

瀧法寺の宝篋印塔

聖域を区切るのが門
囲って回廊になったりします。

法隆寺の中門

生活のための空間として、食堂、湯屋、また倉庫などもあります。

伽藍(がらん)
こういった各種建物を伽藍(がらん)と言います

大規模寺院は
本堂、講堂、塔、僧房、経楼、鐘楼、中門を含む回廊が揃っています。
厳密にこの種類じゃなくても良いんですが
7つも揃って大きいよねと、大規模寺院の事を七堂伽藍(しちどうがらん)と呼びます。

永平寺の七堂伽藍

鎌倉時代以降の寺院には、さらに違った種類の建物があったりします。
開祖が信仰の対象になりますので
開祖の遺影や像を安置する祖師堂や御影堂(みえどう)が作られ
本堂と同格、ないしはそれ以上に重視されます。

身延山久遠寺の祖師堂

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