[源平]4 保元の乱(源平編)

[源平]1 武士の始まり
[源平]2 八幡太郎義家ここにあり
[源平]3 どっちにつこうかプレゼント大作戦
の続きです。

保元の乱

崇徳上皇が追い詰められ、どうしようもなくなって兵をあげる。

崇徳上皇と後白河天皇の対決の構図となります
お公家さんたちや武士たちはどっちにつくかの選択を迫られます。

源平シリーズなので源氏と平家を見ていきましょう。

源氏

せっかく源義家が地位を築いたのに、その子義親が謀反を起こして、全てが台無し
息子為義は何とか持ちこたえる。
一時は白河法皇に気に入られて、復活かと思いきや、
色々やらかして、白河法皇からも解官される

同世代の平忠盛とは大きく差をつけられた形。

次に頼みの綱としたのが摂関家
藤原忠実と頼長の親子に取り入って、用心棒として頑張る。

為義の子の義朝(頼朝のお父さん)は、こんなお父さん話にならんと見限った。
京を離れ、東国で地盤を築いていこう。
元々、八幡太郎義家の地盤でもあるので、地侍たちは総じて好意的
着々と勢力を広げていく。
ただ、武家の棟梁となるためには、中央とのパイプが期待される。

分かったよ。
再度京都で人間関係作りをしよう。

お父さんの為義を頼りにするつもりはさらさらないので
敢えて逆の派閥に近づこう
天皇家としては、白河ではなく鳥羽
崇徳天皇、近衛天皇のあと、後白河天皇になると、
後白河天皇とも良好な関係を築いた。

摂関家は為義に押さえられちゃっているし。
そうだ!
藤原忠実と頼長の親子ととても仲の悪い忠通がいた
本来、忠実の長男なのにお父さんが弟ばかりを可愛がるので心底頭に来ている
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

あれ、義朝君って為義の息子だよね

いえいえ、あんな親父話になりませんわ
いつでも縁を切れますよ

はい、一丁上がり

でもこの時点では実際に戦で敵味方に別れるとは思っていなかったんですがね

平家
仁平3(1153)年、平忠盛が没する。
平家の棟梁が清盛に移るのが保元の乱の3年前。

その前にもとんとん拍子で出世している
だいたい急激な出世があると
やっかみから色んな噂が立つもんだけど
清盛は白河法皇の息子ではないかという噂が立った。

いくつか根拠らしいものが述べられているが
もし本当だとすると、崇徳天皇と情況的に一緒ということになる。
白河法皇が大嫌いな鳥羽上皇は崇徳天皇を徹底的にいじめたのに
清盛の方は可愛がったというのは、ちょっとバランスが悪い気がする。

保元の乱の時、清盛は後白河天皇から召集がかかっていない。

まだ清盛に移って3年しかたっていないということもあるけど
清盛の継母、池禅尼(いけのぜんに)が崇徳上皇の息子の乳母だったため、警戒されたということがある

清盛としても、源氏とかに比べ、特に危険を侵さなくても、順調に行っている
できれば静観し、さわらぬ神に祟りなし、と行きたい。
とはいえ、どちらにもつかないって訳には行かなくなってきた。

鳥羽上皇が亡くなり、一気に戦が現実味を増してくる。
叔父さんの平忠正は、崇徳側についた。
正直、疎遠な親戚。あんまり関係無いけどどうしたもんか。

迷いを断ち切ったのは、池禅尼の一言
今回の戦は、崇徳側が必ず負ける。

いざ
崇徳側が白河北殿に集結。
ただ、ここにいたっても崇徳側の面々には踏ん切りがついていない。
やるぞ!って感じを見せれば、相手も本当に殺し合いをしたい訳じゃないだろうから
落としどころの提案をしてくるんじゃないか

ぐずぐず

一方、特に義朝はやる気まんまん
平家ってどちらかというと貴族に憧れているところがあるけど
源氏の方は、基本的に田舎もんなので、武力でアピールするしかない。

やったるで

後白河側から先制攻撃。
やっぱり、先手の方が有利。

ただ、ひとつ計算外。
為義の息子で義朝の弟、為朝の弓がすごかった。
義朝はタジタジ

そのあと、応援部隊が駆け付け、火をつけたので
一気に形勢が決まり、崇徳側は逃げるのに精一杯

清盛はほとんど見せ場なし

結局、たったの4時間だった

でも、京都の地での戦は何百年ぶり
時代が変わったことは実感を持ってとらえられた。

武士はことごとく死刑
平安初期の薬子の変以来、350年ぶりの死刑の復活だった。

清盛は自ら、叔父の忠正を処刑
自分から実施すると、義朝も、自ら実の父や弟を処刑せざるを得なくなる

勝つには勝ったが、父殺しの汚名を背負う苦い勝利だった。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

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