[源平]11 何で勝っちゃったの?

[源平]1 武士の始まり
[源平]2 八幡太郎義家ここにあり
[源平]3 どっちにつこうかプレゼント大作戦
[源平]4 保元の乱(源平編)
[源平]5 平治の乱
[源平]6 平清盛快進撃
[源平]7 平清盛。おごれるものは
[源平]8 神戸に都を?
[源平]9 源頼朝、立つ
[源平]10 勝利のあとの惨敗
の続きです。

石橋山の戦いで、大惨敗を喫して、命からがら逃げ出して
箱根でかくまわれたあと、小舟で安房(あわ=今の千葉県の南端)に着いて北条時政と落ち合った。

勝ち馬に乗るという言い方を良くするけど
普通に考えると、大負けしたものにわざわざ味方しない筈

でも、関東の武士たちに不思議な現象が起きた

どうする、どうする
どっちに付こうか

平家と源氏という単純構造ではない。
そんな事言ったら、そもそも、北条時政政子親子は平家

清盛が送り込んできた目代が気に入らないとか
それぞれに事情がある

臥薪嘗胆、頼朝もよく旗揚げしたじゃないか

なんと、頼朝に味方しようというものが
どんどん増えていく。
石橋山での惨敗からわずか40日
安房、上総、下総を実質支配下に入れ
数万の軍勢に膨れ上がる

さあ、源氏ゆかりの地、鎌倉入りだ

富士川の戦い

一方の平家
頼朝追討の宣旨が下され、平維盛(重盛の長男)・忠度(清盛の末弟)・知度(清盛の七男)
が追討使に任じられたのは9月5日のことだった。

だがその翌日には、早くも石橋山における頼朝の敗報が届く。

あら、そうなんだ。拍子抜けだね、とばかり大いに油断
21日に福原を出たものの、1週間も京都でぐだぐだ
29日にようやく京を立った。

こちらの軍勢も、進んでいくうちにどんどん膨れ上がる
ただ、その実態は、途中の土地土地で狩り出された
狩武者、と言われる者たち

そんな平家軍にまず対峙したのは、甲斐源氏、武田氏だった。
必ずしも頼朝の元にだけ参集したわけではない。
動乱に乗じて一旗あげてやろうという者が独自の動きを見せていた。

一時は7万にまで膨れ上がっていた筈の軍勢が
武田軍との戦いで力を削がれ
差し迫る頼朝軍の報せを聞いて、平家首脳部たちは富士川の地で撤退を決めた。

そんなとき、武田軍がこっそりと背後に回ろうとした
気づいたのは、水鳥たちだった。

バタバタバタバタ
一斉に羽音が響く。

ひええええ、やられるぅ
大軍勢に不意うちを喰らわされたと
ほうほうのていで逃げ出した。

そこにやって来たのは頼朝軍

あれれ?逃げていってるんじゃない
勝ったぜ!エイエイオー

武田さん?
すみません。お世話になりました。

これで勝ったというのもなんだし
追いかけてギャフンと言わせ
何ならそのまま京都へと攻め上がろうと考えたのが、頼朝

千葉常胤、三浦義澄、上総広常が制止します。
今は鎌倉にて力を貯めるときですぞ。

平清盛
なんじゃとぉ。おめおめと帰ってきおって
烈火の如く怒った清盛

あちこちで反乱が始まる
福原遷都なんて言っている場合じゃないと
京都へ都を戻す。

わしをなめんじゃねえ
清盛は次々と反乱を平定していく
第二の平家黄金時代か

でも、天は清盛に味方しなかった。
治承5(1181)年、病気に侵される
体は火を焚いたように熱く、「あっち死に」した
64歳

木曽義仲
頼朝が動かなかった事で、独自の動き第二弾
はい。木曽義仲です。

越後から、今がチャンス
治承4(1180)年、兵をあげました。

次第に勢力を拡大していきます。

このままじゃ先を越されてしまう。
頼朝は越後へ兵を向けた。
源氏同士の全面戦争か

ギリギリのところで和解成立
木曽義仲の長男義高に頼朝の長女大姫の婿とする。
いわゆる人質です。

後に、義仲が死んだあとは、義高も暗殺しています。
可哀想なのは大姫
とても仲の良い夫婦になったようで
夫を殺した父親を一生恨んでいます。

寿永2年(1183)年、平家は大量の人員を木曽義仲追討のために派遣します。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いが起き、山の中という地の利を活かして
木曽義仲が勝利
いよいよ、義仲が京都へ攻め上がることになります。

[歴史]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です