[名僧]清沢満之は骸骨キャラ

名僧シリーズ、長くやってまいりましたが、今回が最終回です。

清沢満之(まんし)
1863~1903年

尾張藩の貧しい下級士族の長男として生まれます。

16歳で出家
東本願寺設立の京都の育英教校に入ります
東京大学に進み、一時期井上円了と行動を共にします
哲学館大学でも教えています。

東本願寺が京都府から経営を依頼された京都府立尋常中学校の校長になります。
ここまででまだ25歳

この頃、ミニマムポッシブルという生活を始めます。
日本語に訳すと「可能な限りの最低限の生活」

食膳は麦飯一菜漬物、煮炊きはせず、
酒はもちろん茶すら飲まず、飲料には素湯もしくは冷湯を用いた

継続的な栄養失調状態

そんな自分を骸骨と表現します。
「宗教哲学骸骨」「他力門哲学骸骨試稿」を執筆
今で言うと、骸骨キャラの満之でーす、って感じでしょうか。

無理がたたったのか、肺結核になり
生死の境をさまよいます。

それがきっかけで、精神主義という思想に突き進んでいきます

精神主義
かなり突き詰めた他力信仰
絶対的な如来を信じ、全てを任せます。

生死すら任せるので
仏に任せた以上、生も死も憂うることではない。

まして、それ以下の追放、牢獄、非難、排斥など多くのことは気にかけるものではない
ただただ仏の与えたものを楽しむ

大谷派
当時、浄土真宗大谷派は、大変な時期にありました。
負債と、御影堂と阿弥陀堂再建の問題で苦しんでいた。
負債は、明治維新期の多額の出費です。
大谷派は、幕府に味方していたため、存続が危ぶまれる状況だったのです。
さらに、蛤御門の変に起因する京都の大火災で、丸焼けになってしまいます。

なりふりかまわず、財政問題にのみ注力したがゆえに
信者たちの大きな反感をかい
法主の品行問題も加わり、ガタガタ

清沢満之は村上専精らと共に、改革運動に乗り出します。

でも残念
危険分子とみなされ、除名になっちゃうのです。

でも、精神主義だから大丈夫
どこ吹く風で、仏のなすがまま

結局法主が換わり、新法主、大谷光演師は清沢満之を呼び戻します。

真宗大学(のちの大谷大学)をお願いできないか

良いですよ

でも、翌年学校騒動というのが学生の中からおきます

あ、良いですよ
じゃあ私は辞めましょうかね

大浜に戻っても、精力的に執筆活動
ただ、肺結核の法は改善することはありませんでした。

吐血を続ける中でも、執筆

もうそろそろのようですね
お任せしているので、どっちでも

難病だった息子が亡くなり、続いて奥さんが亡くなり
自分も、次は私の番ですね、と言わんばかりに、
すうっと、41歳の短い生涯を終えました。

[名僧]シリーズはこちら(少し下げてね)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です