[神社] 道祖神。夫婦で仲良し

道祖神(どうそじん)

かつて、悪霊や疫病は、村と村の境、峠、辻などから、
村に入ってくると考えられていました。
それらをはね返すために、道祖神という神様が祀られるようになりました。

「村を守って繁栄させる」という観点から、
道祖神には、五穀豊穣、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄などのご利益も期待されるようになりました。
また、交通の要衝になる峠や道の分かれ目にあるため、
旅人が道中の安全を祈って供え物を手向けることも多く、
手向けの神との別名があります。

同様な形態の石造物は地域により、サイノカミ、ドーロクジン、ドーソジンなどとも呼ばれ、
これらを総称して道祖神とされています。

道祖神は、素朴な民間信仰から始まっており、
何をご神体とするかはさまざまです。

最も多く見られる素材は石で、
自然石を道端に置いているだけのことも珍しくありません。
夫婦和合、子孫繁栄のご利益への期待から、
陰陽石(男女の性器に似た形の石)を安置することもあります。

石造道祖神の分布は、主に本州中央部に多く見られ、
この地域では小正月にセートバレーやサギチョウ、ドンドヤキなどと呼ばれる火祭りと
道祖神の祭りとを結びつけようとする傾向が見られます。

サルタビコ
サルタビコと同一視される

男女2体が刻まれた道祖神は、
特に双体道祖神(そうたいどうそじん)と呼ばれ、
多くは『古事記』『日本書紀』にも出てくるサルタビコノカミと、
その妻のアメノウズメノミコトをかたどっています。
サルタビコは、ニニギノミコトが高天原から地上に降りた際に道先案内をしたとされ、道中の安全の神様として信仰を集めているため、
道祖神と同一視されるようになったのです。

道祖神というと、
野ざらしにされているようなイメージがあるかもしれませんが、
全国各地に、道祖神を祀る道祖神社もあります。
そこでもサルタビコとアメノウズメが祭神として祀られています。

道祖神はまた、仏教の地蔵菩薩と習合しました。
お地蔵さんが集落の入り口などに立っているのも、道祖神と同一視されたためです。

[首相]53 橋本龍太郎。ポマード宰相

橋本龍太郎

昭和十二年(一九三七年)、東京生まれ。父の龍伍は大蔵官僚、のちに衆議院議員、厚相、文相を務める。
昭和三十七年、父の急死で急遽、翌年の衆院選に立候補し当選したのが二十六歳のとき。
初登院のとき継母が付き添い「マザコン代議士」と揶揄されたりしたが、
以降、若くして要職を歴任し、「政策通」「若きリーダー」と目されるようになる。

容姿や服装のセンスから、一般の人気は高い一方、切れ者過ぎて皮肉な対応が多く、
仲間が少ない、とも言われた。
不勉強な質問には嫌味で返す、記者泣かせの政治家でもあった。

首相に
自由民主党・社会党 (のち社会民主党に改称)・新党さきがけの3党連立を継続しつつ、
2年5か月ぶりに自民党が総理の座を取り戻したのが、橋本龍太郎内閣である。

最初の課題は住宅金融専門会社問題だった。
経営がゆきづまった住専に対して、公的資金6850億円の投入を1996年度予算に計上する。
1996年(平成8) 9月に衆議院を解散し、
細川内閣時に導入が決まった小選挙区比例代表並立制による総選挙が初めて実施されることになった。
公示直前には民主党が誕生している。

10月の投票の結果では、自民党が239議席と第1党の地位を確保。
野党の新進党や民主党は大きな伸びがなく、
社民党と新党さきがけは後退し、閣外協力に転じたため、
自民党単独による第2次橋本内閣が発足する。

橋本総理は行政、財政構造、社会保障構造、
経済構造、金融システムの5大改革(のちに教育を加え、6大改革)に取り組む。
行政改革では中央省庁をほぼ半減する再編案をまとめ、
2001年(平成13)1月に実施された。

いっぽう外交分野では、1996年2月のクリントン米大統領との会談をへて、
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の全面返還の合意を取りつける。
1998年(平成10)、ロシアのエリツィン大統領との会談では、
北方領土問題における国境線画定の新提案をするなど交渉は進展したものの、
頼みのエリツィンの退陣で実らなかった。

1997年(平成9)4月、消費税が5%に引き上げられる。
11月には北海道拓殖銀行の経営破綻、
山一證券の自主廃業など経済危機が発生。
1998年7月の参議院選挙では、橋本総理による「恒久減税」発言のぶれも影響して
自民党は44議席にとどまり、橋本総理は敗戦の責任を取って辞任する。

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[織田信長]9 武田信玄西上

[織田信長]1 まむし殿の娘、濃姫
[織田信長]2 二人だけの時間では
[織田信長]3 美濃はそなたに差し上げる
[織田信長]4 血戦桶狭間
[織田信長]5 天下をお取りになるまでは
[織田信長]6 上洛の大義名分
[織田信長]7 義昭を将軍に
[織田信長]8 姉川の戦い
の続きです

将軍足利義昭は織田信長のおかげで将軍になれた
ただ、時が経つにつれて、二人の人間関係は微妙になっていく

義昭としては、結局自分には全く何の権限もなく、すべて信長の言いなりという状況に満足がいかなくなってくる
信長に相談せず、勝手に命令を下す

信長は、勝手なことをされては困るので、
全て私の承認を得てからでないと行動してはならぬという趣旨の5ヵ条を突きつける

それではまるで信長の家臣ではないかと怒り
反信長の勢力、朝倉、延暦寺、浅井、武田信玄、本願寺に密書を送る
全て、義昭をお助けすると回答してきた

信長はその動きを全て把握していた

そんな状況下で、愛妻濃姫の死去が知らされる
信長の中で何かが途切れ
比叡山延暦寺の焼き討ちがなされる

恐怖に震える義昭は、明確に反信長の超実力者、武田信玄に、信長討つべしとの教書を送る

信玄が、いよいよ京都への上洛を決意する
長い間関東で競い合っていた北条氏や上杉氏と戦っている場合じゃない
北条氏とは和議を結び
対上杉氏では、同盟関係にある本願寺に働きかけ
加賀、能登、越中で一揆を起こさせ、対応に翻弄させる
雪で上杉は本格的に動ける状況にない

三方原(みかたがはら)の戦い
立ちはだかるは織田と同盟関係にある徳川
怒涛の進撃、武田勢
三河の城を次々に落とし、
徳川の本拠、浜松城に迫る

そのまま行けば、浜松城も落とし徳川を壊滅させられた勢いだったが
信玄はそうしなかった
あくまで敵は織田信長
徳川と戦って兵を減らしたくない
浜松を迂回

徳川の家臣たちは死を覚悟していたので、ほっと胸を撫で下ろすが
唯一、家康だけは反応が違った

敵がわが領土を踏みつけてゆくのに、本城に引き籠って、一戦にも及ばぬというのは、武門の恥だ

三方原(みかたがはら)は浜松城の北方一キロにある大高原
家康はそこに陣をはる

見逃してやろうに、無駄なことを

徳川勢さんざんに打ち破られる
家康自身にも襲いかかる

「殿、至急御帰城下さい。ここは、私が防ぎます」
浜松城の留守を守っていたはずの家臣夏目正吉
死ぬ気でいた家康を無理矢理に馬に乗せ
馬の尻を強く引っ叩いた

命からがら浜松城に戻るが
恐怖のあまりうんこを漏らしてしまった
家康三大危機の一つ

徳川惨敗の知らせを受けた織田信長
岐阜に戻って臨戦体制

義昭に対しては17ヶ条の弾劾書を突きつけて完全決裂
義昭は兵を集めて、対峙するが
信長はそんなものを相手にする状況にない
放っておいて、岐阜と京都に全勢力を集めていく

ところが、どうも信玄の動きがおかしい
多くの忍びを使って情報を探る

信玄重病か

それを裏付けるように
武田勢の動きが完全に停止した

信長は、岐阜を引き上げて京都に向かう
義昭をひねりつぶすこともできただろうが、
やはり信玄の動きが気になるので
義昭と和議を成立させ
大急ぎでまた岐阜に戻る
実はその翌日に武田信玄死去
その事実はひた隠しに隠された

その後、義昭と信長との間で
押し引きがあるが
結局、信長は義昭の命までは取らなかった
ただ、将軍家足利は、完全に滅亡
室町時代はこれで完全に終わりを告げたことになる
義昭はこのあと、各地を転々とする人生となる

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[家重]8 家重様にお伝えせずにいて、よいはずがございませぬ

[家重]1 まいまいつぶろと呼ばれた将軍
[家重]2 家重様の目と耳になってはならぬ
[家重]3 どんな駒でも、前に進むことができる
[家重]4 お庭をともに歩きとうございます
[家重]5 二人だけの合図
[家重]6 まことでございます
[家重]7 もし口が聞けぬのなら
の続きです

比宮が亡くなり
家重は随分酒の量が増えた
何も手がつかない

同じ状態にあったのが比宮のお付きのお幸

忠光がひたすらに家重のことだけを思う人生だったのと同様に
お幸は比宮だけが人生だった

京都に帰ろう
ただ、お世継ぎをお幸に挙げて欲しいという比宮の遺言
その言葉が頭の中でこだまする

そんなこと出来ようはずがない
ただ、比宮の一途な思いが嫌というほど分かる

一年が経過した

忠光に面会を申し入れる

私を家重様にご推挙くださいませ

えっ

身の程もわきまえぬ恥知らずとお思いでございましょう。
ですが忠光殿ならば信じてくださいますでしょう。
私は比宮様から、家重様のお世継ぎ様を挙げよと御遺言を賜りました
私は、どうあっても家重様の御子を挙げなければなりませぬ

大奥の女は家重に目を留められ、
名を呼ばれなければ寝所に入ることはできない。
だが家重は口をきくことができず、女を見ようともしない。

忠光が洟紙一枚すら人から受け取らぬことは聞いている。
だというのに今、幸のしていることは賄どころではない。
じかに官職を願い出ているにも等しい。

それがしは家重様の小姓となるとき、家重様の目と耳には決してならぬと決めてまいりました。
家重様がじかにごらんにならぬこと、お聞きにならぬことは、
それがしからお伝えせぬということでございます

ええ、ええ。ご立派な御覚悟と存じます

家重様の御口にしかなりませぬ。
ですが、これまでも考えを家重様に申し上げたことはございます

深酒を諫め、鷹狩りを勧めた。
師の室鳩巣が死んだときには、使者に伝えさせる口上をともに考えた。

比宮様の御遺言をお聞かせいただいたのでございます。
家重様にお伝えせずにいて、よいはずがございませぬ

半年が過ぎた

家重から声がかかる

増子の遺言をありがとう。だが、どうしてもまだ考えるのが辛かった

明くる年の秋、比宮の死から三年の後に幸は懐妊した。
そうして元文2年(1637)5月22日、幸は恙なく男児を産んだ。

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