荻窪からウォーキング
の続きです
荻外荘(てきがいそう)
荻外荘は太平洋戦争直前の首相、近衛文麿(このえふみまろ)の邸宅です。
近衛文麿については、こっちも読んでね
[首相]23 近衛文麿。信じがたい事ですが。
[首相]23-2 近衛文麿。ヒトラーに扮する
[首相]23-3 近衛文麿。一旦引いて証拠づくり
[首相]23-4 近衛文麿。全ては闇の中
荻外荘は、半分だけ残り、残りの半分に近衛文麿の次男さんがずっと住まわれていたんですが
亡くなったあとに、杉並区に所有権が移転
無くなっていた半分は豊島区に移築されていたのですが、それも戻してもらって
復原大プロジェクト
長らく工事をしていて、まだかまだかと心待ちにしておりました
去年末、いよいよオープン
落ち着くのを待って、いざ
歴史上の重要人物が住んでいた場所というだけでも価値があるけど
荻外荘は、もっと特別な場所
近衛文麿は首相官邸を使わず、
第二次第三次内閣の期間中ずっとここに住み続けたということがあって
要人がひっきりなしにここを訪れ、
教科書にも必ず写真が出てくる「荻窪会談」をはじめとして
太平洋戦争突入へ向けての重要な会議が開催され意思決定が行われた場所
近衛文麿が自決した場所でもあります
さらに、戦後吉田茂が譲り受け、1年半ほど住んでいたのですが
その間にも要人がここを訪れ、再び意思決定の場となります
建物としても大きな価値があります
築地本願寺をはじめとして、数々の有名な建物の建築家、伊東忠太
伊東忠太が個人宅を設計したという超レアな作品
近衛家は、藤原道長等の藤原家が分かれていくなかで、五摂家といって摂政関白になりえる5つだけの家の一つ
その中でも近衛家は筆頭
皇族に次ぐ格式の高さだと言えます
近衛家は、格式だけでなく、実際に政治に携わって動かして行った重要人物を多数排出しています
まず「応接間」に向かう
案内の男性スタッフがおられ、色々質問した
細かな、荻外荘の経緯
最初は、天皇陛下のお医者様だった入澤達吉氏の別宅だった
入澤さんの義理の弟が伊東忠太であったため、設計を依頼
その、入澤達吉宅に招かれた近衛文麿が荻外荘をいたく気に入り、譲って欲しいと交渉し
近衛文麿邸になる
近衛文麿自決後、次男が住むが、その時は半分になる
建築の説明
天井がとても高いこと
当時の写真を元に、どことどこが復原し、そのまま材料を使ったのがどれか
例えば、床のタイルは龍が描かれて特徴的だが
左3列だけが当時のままのタイルで、それ以外はそのタイルから復原
見事なテーブルは、写真から復原
太鼓
有名な荻窪会談がここで行われた同じ日に贈られた太鼓
集まった記者たちに、会議が終わったことをこの太鼓を打って知らせた
ニュース映像にも出てくる太鼓
「荻外荘」の扁額
荻外荘という名前をつけた、西園寺公望(さいおんじきんもち)の字からおこした
食堂では、映像が流れていた
好きなのを押してください、ということだったので
私は3つまで押して、かなり長く食堂の椅子に座って見ていた
そのあと、いよいよ荻窪会談の行われた部屋や
近衛文麿が自決した部屋に行くのだけど
長くなりましたので、続きは明日