芭蕉記念館に行ってきました
の続きです
記念館を出て、隅田川の方へ
おくの細道の句がパネルになっているところがあるのですが
かなり経っているんでしょう
文字の判別が厳しい

芭蕉庵史跡展望庭園
おっと今日はこっち向いている
時間によってこっち向いたり横向いたりするのよね
この像は、杉山杉風(さんぷう)の書いた芭蕉像を元にしています

この場所、みつまたと呼ばれて小名木川(おなぎがわ)と隅田川が合流する地点で、昔から風光明媚な場所として、歌川広重も名所江戸百景に描いている

第何回目かの芭蕉庵の場所

芭蕉稲荷
さっきの芭蕉庵史跡展望庭園辺りからこの芭蕉稲荷辺りまでが芭蕉庵
ここの下から例の蛙の石像が出土
最初はここに記念館を作ろうとしたけどあまりに手狭だったので芭蕉記念館の場所になった

平賀源内旧居跡

audibleで平賀源内の本を聞いた
すごいっ
平賀源内ってエレキテルと土用の丑の日を広めた、ぐらいしか知らなかったけど、ものすごい人ですね
今度じっくり書こうと思います
本邦セメント発祥の地
浅野セメントの地

浅野総一郎は国産セメント工場の創業者の一人で、渋沢栄一から民間への払い下げを受け社長となる


新井白石住居跡
吉宗派に追いたてられてここへ。折りたく柴の記はここで書いた
でも不思議
ここで合っていると思うのですが、案内板がどこにもない
新井白石ほどの大物になぜ案内板がないんだろう

亀堀公園

この土地周辺は、江戸初期の寛永18年(1641)に江戸市街で起こった火災に伴い、
日本橋本材木町・神田佐久間町付近から移転されてきた「深川で最初の材木置き場」でした。
江戸の大火の一因が、高積みされた材木だったことから、幕府は材木置き場を市街地の外に集めることとし、江戸市中に近く、水運の便がよい等の理由から深川が移転先に選ばれました。
新たな材木置き場では、貯木と搬送のために基盤の目状に掘が作られ、火災でも材木が燃えないよう掘に沈めて貯木していました。
その後、材木置き場は、元禄14年(1711)に現在の木場公園のある場所に移転し、
跡地は「蔵の町・深川」を担う流通の拠点として生まれ変わり、佐賀町周辺を流れる仙台掘・油掘を南北につなぐよう運河のネットワーク化が図られました
仙台堀
江戸時代、この堀の北岸、現在の清澄公園の西隣に
仙台藩の深川蔵屋敷があり、
この堀を利用して仙台から送られた米等を運び入れたことから「仙台堀(せんだいぼり)」と呼ばれました
ちなみに、JR御茶ノ水駅周辺の神田川も、その開削工事を仙台藩が請け負ったことから、かつて「仙台堀」と呼ばれていました。
ここは何が良いかって、おくの細道の句が立てられている
おっ、新しくなって漫画付き
前は単に句が書かれていただけだったんですけどね
全部詳しく解説できますよ
その内、有名なのだけ写真載せましょう






採荼庵跡(さいとあん)


ここはおくの細道に旅立った場所
おくの細道に旅立つということで、住んでいた芭蕉庵を売り払った
現実に出発するまでの間、門人にしてパトロンであった杉山杉風(さんぷう)宅に居候
ここから、船で隅田川に出て、千住まで行き、そこから実質出発
売った芭蕉庵の方には、句を立てかけておく
草の戸も 住み替る代ぞ 雛の家
訪ねて見ると、既に家族が住んでおり、女の子の声が聞こえる
ああ、ここで3月になるとお雛様とかが飾られるんだろうなあ
この句は連歌の発句でもある
連歌は最初五七五を詠む
すると別の人が、続く七七を作る
するとまた別の人が、その七七につながる前の句の五七五を詠むというふうにどんどん繋げていく遊び
芭蕉は連歌の先生なので
この句が元の芭蕉庵だった家に掲げられていたら
芭蕉を訪ねてきた人が
ああ、芭蕉はここにはもういなくて旅立ったんだなと分かる
そして、続く七七を作って横に掲げてくれるだろう
臨川寺
芭蕉の禅の先生が仏頂和尚
その仏頂和尚がいたのが臨川寺なので、ここにも頻繁に通ったらしい