三峯神社に行ってきました、の続き

三峯神社に行ってきました
の続きです

拝殿へ向かう

青銅の鳥居

ハ棟木灯台(はっとうぎとうだい)

手水舎(ちょうずしゃ)
手水舎がこんなにきれいなのは見たことがない

拝殿
いよいよ拝殿にやってまいりました
極彩色の彫物が実に見事





拝殿は格天井(ごうてんじょう)に奥秩父の山々に自生する花木百数十種が描かれているとのこと
横から覗き見しました
フォトブックから画像を拝借

緑色の御守を買いました
「氣守り」と言って三峯神社内の木の切れ端が入っています

毎月一日だけ限定の白い氣守りというのが異常なほどの人気になり、周辺の道が大渋滞になって地元の人たちの生活に支障をきたすようになりました
今は白氣守りは中止しています

売店でフォトブックを買いました
とても美しく、見ているだけで込み上げてくるものがあります


拝殿の前の石に龍にも見えるものがあると評判になっています
確かに龍に見える

御神木
創建1900年ともなると、御神木も大迫力

以前は触って気をいただくことができたのですが
今は近くで3回深呼吸をして願い事をするという方法に変わりました

摂社末社
20を超える摂社末社が並んでいました

縁結びの木
2つの木がピッタリくっついてまっすぐ上に伸びているので
縁結びの木となっています

日本武尊の像
どでかい日本武尊の像がありました

日本武尊については、以前書きましたのでよろしかったらそちらも読んでくださいね
[天皇]13 成務天皇。ヤマトタケルの愛
[天皇]12 景行天皇。ヤマトタケルが大暴れ

[お出かけ]シリーズはこちら(少し下げてね)

三峯神社に行ってきました

[4/10の事です]
三峯神社に行ってきました

三つ鳥居
真っ白な見事な三つ鳥居

三つ鳥居は、神社の元祖、大神(おおみわ)神社にもあります

東京であれば牛島神社

眷属(けんぞく)
手前にいるのが、狛犬と思いきや、オオカミ

オオカミは田畑を荒らすイノシシや鹿を追ってくれる益獣とされてきた
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征したときこの辺りで道に迷ったが、オオカミが道案内してれた。
神様は目に見えないから、遣いの動物が「眷属(けんぞく)」と言って大切にされてきた
稲荷神社の狐が有名だが、鹿島神宮、香取神社、春日大社の鹿や、天神や天満宮の牛や、住吉神社系だと猿
陸の動物だけで見ても、眷属にはこんなにバラエティがある

江戸時代には、江戸でオオカミの御眷属様の御札がブームになった

眷属は神ではないのですが、さらに神格化した場合には、大口真神(おおくちのまかみ)となり、そちらを祀った神社も三峯神社の中にあります
御仮屋神社

講の碑
三峯神社はとても行きづらい場所ですので、なかなか参拝できないので、互助会を作って代表者が参拝
実際に行ければ、記念碑を作る
伊勢神宮や富士山や大山でも良くあるシステムなのだけど
このこんな立派な碑がいくつも並んでいるのは見たことがない

遥拝所
本当は奥宮に行くべきなのだけれども
ここまででも無茶苦茶大変なのに、奥宮は遥かに山奥
ここから拝むと、奥宮に行った事になるという便利スポット
眺めが絶景なのでスカッとします

雲海が見れる可能性があることで有名

遥拝所の手前にあるのは銅製の両部鳥居というスタイルの鳥居

随身門(ずいしんもん)
随神門と書いたりする
ここからが本当の聖域
実に美しい



燈籠が見事

中にいるのは矢大臣左大臣

向かって右が矢大臣→豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)
向かって左が左大臣→櫛磐間戸命(くしいわまどのみこと)

元々は仁王門で、金剛力士像がいた
それがなぜ、随神門になり、矢大臣左大臣になったかというと
神社だから

三峯神社の歴史をざっとお話しますと
創建は実に1900年も前、日本武尊(ヤマトタケル)が作った
その後、役小角(えんのおづの)等の修験者(山伏)達の修行の場
江戸時代には日光という僧により、再興
ここで仏教色が強くなり、三峯山高雲寺観音院という寺と習合
明治時代の神仏分離令により、寺院を廃し、三峯神社となる

すなわち、一旦寺と習合たので仁王門だけど、明治維新の神仏分離令で神社となったから随神門

このあとまだまだ続きますが、続きは次回

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中野区を歩いてきました

[2026/4/9の事です]
お出かけしましょう
23区中、現在行っている数が61箇所で一番少ない区
中野区

西武新宿線、都立家政駅から鷺宮駅に向かっていきます
仙蔵院

とても立派な松があり、丁寧に庭が整備されていました

福蔵院
すごくきれいなお寺でした


これだけきれいに十三仏が揃っているのは珍しい

鐘楼に登れました

鐘楼からの景色

屋根に太陽光パネル

とても美しい庭

鷺宮八幡神社
隣の福蔵院と昔は一緒だったんでしょう

面白かったのは、絵馬
願い事別にかけるところが違い、上のパネルの形が違う

このあとは石仏巡りになります
白鷺2丁目庚申塚
5つもあります

明治20年代に疫病が流行した時に、
大変ご利益があったと伝えられる。
戦後しばらくは、子どもたちがいたずらをして倒して遊んでいたが、昭和30年頃整備され、地元の人びとが管理している。
一番古いのは延享3(1746)年のもの
何とか年を読み取ろうとしたとき、「大」の字が目に入った
大の付く元号か、何だっけ、と思いつつ、下の字
ん? 正?
江戸時代だとばかり思い込んでいた。
江戸より前は超レア
まさか、明治以降の大正時代になってまで、石仏を作ったんですね
初めて見ました

交通厄除け地蔵尊
交通事故が多発したので、厄除けとしてお地蔵さんを作った

何と何と、昭和12年に作られたものらしい
交通安全のお地蔵さんって日本初なんだって
大正時代の石仏を初めて見たと思ったすぐ後に、昭和のお地蔵さんがあったとは
各神社には当たり前に「交通安全」の御守を売っている訳だから
「交通安全」のお地蔵さんがあってもおかしくない

つげの木地蔵というのがあって、車が突っ込んだ事があり
以下のような短冊がかかっていると本にあった
「勿体なや御堂こわせしダンプ車をとがめ給はぬ石仏さま」
ぜひとも見たかったんだけど
いくら探してもの場所にお地蔵さんを見つけられなかった

子育地蔵
新青梅街道を南に渡り、住宅街の中を行くと、鷺宮4、5丁目の境、神社の東角にある。
宝暦9(1759) 年銘の地蔵尊 (丸彫)である。
施主の上鷺宮村の大野弥三郎が、子どもが育たないのでこれを建てたといわれている。

道を挟んだすぐ近くに、
台石が道しるべになっていて破損された地蔵尊(丸彫)と
延享2(1745)年銘の庚申塔 (笠付型、青面金剛)があった

願掛け地蔵
中杉通りを北へ、新青梅街道を越した練馬区との境に、2体の石仏がある。
大きい方の地蔵尊は正徳5(1715)年銘、
小さい方は造立年不明で阿弥陀如来と思われる石仏である。

祈願する人が頭から水をかぶって身を清め、
白装束姿で、夜中に祈願しながら
小さい方の石仏を倒すと、
大きい地蔵は、倒された小さい石仏を起こしてもらいたいために、願いごとをかなえるという。
願いごとがかなったら、祈願した人は、自分が倒した小さい石仏を起こしに行くらしい

続、孫がやってきた

孫がやってきた
の続きです

一夜明けて
今日は、新宿区にいる、娘の旦那様のお母さん、孫からするともうひとりのおばあちゃんのところに、孫ファミリーが遊びに行きます
向こうのお母さんとしても、東京に来たんなら孫の顔見せてよ、となります

午前中はこっちで遊んで、午後向こう
旦那様は仕事があるのでその後大阪に帰って
私が新宿区まで孫を迎えに行きます

朝はごきげん

カミさんはやっぱりすごいなあ、と思った
2人の子供を育て上げた「お母さん」のプロであるのに加えて
仕事で子供相手にしていますので。

ひっきりなしに赤ちゃん言葉で話しかけ、
どこを触ってあげると気持ち良いとかも分かっている
童謡とかもかけて一緒に歌って
プロはすごいなあ

こっちはずぶの素人
娘が赤ん坊だった頃なんて、完璧に忘れている

カミさんの見様見真似で
今度は、おじいちゃんですよ

娘はすっかり「お母さん」になっていた
昔、赤ん坊だった娘
なのに、自分が子供を産んで2ヶ月半たったら
もう、孫からすると頼りになる「お母さん」

幸せの絶頂って感じが満ち溢れている
孫を見てるのも嬉しくてたまらないけど
そんな娘を見ていると、これもたまらない

幸せそうだね、どう?

うん、楽しくて楽しくて

旦那様は3月末まで育休を取っていた
我々の若い時、父親が子育てのために1ヶ月くらい会社休むって
制度以前に発想として無かった気がする
1ヶ月はその目的に従い、ひたすら子供を可愛がった
確かに私に子供ができたとき可愛くて仕方なかったのは分かるけど
仕事が忙しくて、育児はほとんどやらなかった気がする
すごいわ
娘に聞いても、母乳をあげる以外何でもできるとのこと
「お父さん」が可愛がっているのを見ても、またまたほっこり
夫婦仲もより一層良くなっている気がする

カミさんも
娘も
旦那様も
みんな孫を中心にして
幸せ幸せ

赤ちゃんを見る機会って、もう何十年も無かったけど
不思議な動きをする
ひたすら手足を動かし続ける
ふとすると今度は一生懸命泣く
また、ふとすると今度は寝ている

その繰り返し
それを繰り返しているだけなのに
なぜこんなにも、周りの家族を幸せにできるんだろう

幸せの天才

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