ペリー来航。どんな人?その1

幕末明治の外国人シリーズ

この人抜きには何も始まりませんね

ペリー以前
ペリー以前に、アメリカって日本に来たことあるんでしょうか

記録上、最も古いのは、
1791(寛政3)年、紀伊大島にやって来た冒険商人ジョンケンドリックの
レディワシントン号
その後も、オランダのごとく偽って
長崎出島に色んな船が来た記録がある

公的な使節として初めてやって来たのは1846(弘化3)年
ジェームズビッドル提督
小型船2隻を引き連れて、ペリーと同じく浦賀沖

目的は開国
穏健で友好的に交渉したんだけど決裂

3年後の1849(嘉永2)年、プレブル号艦長、ジェームズグリンが
漂着して捕らえられていたアメリカ人救済のため来航

こちらは終始強硬姿勢で、成功。

踏まえると
よしっ、強硬姿勢で行こう

それまで色んな国が、開国を求めて日本に来ていたが
成功はしていなかった。

シーボルトやマクファーレンからの情報も踏まえ

単なる強硬姿勢ではなく、圧倒的強硬姿勢で行こう
戦争はちらつかせよう。
でも、情報を踏まえると、交戦はすべきじゃない。
あくまでも、目的は開国であり、貿易

でも、どうしても従わない場合は
周辺の島は軍事力で占拠するつもりではいた。

来航
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に来航
蒸気船2隻と帆船2隻

他国は、それまで帆船で来ていたから衝撃度は圧倒的

江戸庶民たちは上へ下への大騒ぎ

デモンストレーションとして
アメリカ独立記念日の祝砲だと称し、空砲を数十発発射
これは、事前に、いつ空砲打ちますよと連絡済み

逃げまどう人達
でも、空砲である事が分かると、逆に大喜び

たーまやー

交渉
アメリカ大統領からの親書を受け取っていただきたい

長崎に行ってくれないか

そのつもりはない
受け取らないなら
祖国が侮辱されていると考え、
どのような事態になっても知りませんので、そのつもりで。

最初に、浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣

位が低すぎるだろう。渡せん。

分かりました。では私が受けとりましょう。
私は、浦賀奉行、香山栄左衛門と申します。

香山栄左衛門
嘘です。
香山栄左衛門も奉行ではなく与力です。

でも、この香山さんが良かったねえ。
人なつっこい、いい人。

美味しい桃をお持ちしました
本当に美味しいですから、おひとつどうぞ。

親書をどうのと言っているときに
ニコニコ微笑んで、桃どうぞ
って、こいつどんだけ能天気やねん

見るからに人が良さそうっていうのは、外国人にも分かったんでしょうね
毒が仕込まれているかも知れないし
普通は桃は食べないよ

結果としては、奉行じゃないのがばれたのか
親書は渡してもらえなかったんだけど
一席もうけてもらう。
その場で遠慮もせず、シャンパンを開けたもので
ますます陽気になった

私は、アメリカ人大好きです。
もうすぐお別れかと思うと、涙が出てきちゃいます。

この時の事を後にペリーは
非常に好意的に書いています。

結局、国と国としては強硬姿勢姿勢かも知れないけど
多分にペリーとしても演じているところはあって
そこに、こんな無防備なおじさんがやって来たら
素の部分がついつい出ちゃうのかも知れません。

その後、本当の奉行に渡すんだけど
その時は一言の会話も無し。
ただ渡しただけ。

もちろん中身は開国すべしということ。

さあ、回答は?

催促されたけど、
老中、阿部正弘は
将軍は今病気なんです。
決定には時間がかかりますので
一年後、もう一回来てもらって良いですか?

分かった。

この病気というのは嘘じゃないんです。
この時の将軍、12代家慶は
何とその10日後に死んじゃいます。

長くなりましたので
再来航は明日のその2でね

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