[首相]9 寺内正毅。ビリケンさんのそっくりさん

首相シリーズ9人目

寺内正毅
長州出身

ビリケン宰相の異名を持ちます。

理由は明らかですね

大阪でうっかり足の裏を見せようもんなら
寄ってたかって撫でられてしまうでしょう。

若いとき、戊辰戦争や西南戦争で大活躍
西南戦争では、負傷を追い、右腕が不自由になります。
それ以降、敬礼するときは、左手で行います。

ずっと陸軍の人で、どんどん出世していくのですが
軍の人なのに、西南戦争での負傷が元で戦場に出られません
従って、戦功もあげられないのに、最終的に元帥という名誉称号までもらいます。
フランス留学で培った国際感覚など、余程頭が良かったのだと思われます。

あとは人脈。
長州、陸軍と言えば山県有朋
山県有朋に可愛がってもらい
薩摩の陸軍大臣、大山巌の秘書官もつとめ
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の側近ともなる

桂太郎内閣以降は、ずっと陸軍大臣
韓国併合後は、陸軍大臣と兼任して、初代朝鮮総督

その時の働きが評価され
大隈重信が総辞職したあとに、山県有朋の推薦で首相になった。

寺内首相
寺内が首相になった大正5(1916)年は、既に第一次世界大戦が始まっています。
第一次世界大戦が始まったのは1914年ですから

そうそう、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の始まった年はとても覚えやすいんですよね。
全部一桁目が4で10年間隔
日清戦争1894年。日露戦争1904年。第一次世界大戦1914年。

ちなみに第二次世界大戦は1939年。25年後です。

1918年に戦争が終わって、寺内首相退陣、原敬内閣誕生となるので
戦争の後半の内閣と言えるでしょう。

原敬内閣からは、政党内閣となり、新しい時代の始まり
寺内首相は長州出身の超然内閣、即ち藩閥政治の最後の首相ということです。

寺内首相が何をしたかというと、シベリア出兵

第一次世界大戦が長引く中
ロシアでロシア革命が起きた。
とってもでかい共産主義国家が出来ちゃった。

列強各国は、こらエラいこっちゃ
何とか邪魔をしようと、シベリアに出兵
これに日本も参画した訳です。

経済が混乱し
米の値段が急騰します。

生活が苦しくなった庶民たちは、全国各地で米騒動を起こします。
それで寺内首相は退陣となります。

肺癌
今言ったように、一般的には寺内首相は米騒動で退陣ということになっていますが
本当は、病気が原因
肺癌で国会に出ることすらままならない。

「病躯劇職にたえず」と山県有朋に辞意表明
山県有朋は
「一身既に君国に捧ぐ。斃(たお)れてのち已むべきのみ」
と慰留

昔のお偉いさんは、こんな大変なときも難しい言い回しをするんですね

お陰で病状はさらに悪化

もう無理、と正式に辞任を表明したときはまだ次期首相が決まっていなかった。
これは異例中の異例

次が決まるまでは何とかやって、と説得され
次期原敬首相が決まるまでの8日間は頑張った。

その後、完全に政治からは身を引き、大磯でひたすら静養したが、1年後に亡くなります。

銅像
三宅坂、皇居のすぐ横なんですが、銅像が建てられます。元帥ですからね

息子の寺内寿一は同じく陸軍でエリート街道まっしぐら
どんどん出世して、最終的に元帥の称号を得ます。
親子で元帥の称号を得たのは、皇族以外では寺内親子だけです。

第二次世界大戦で、金属供出の話が出た時
寿一は、自ら範を示す、と父の銅像を供出してしまいました。

しばらく台座だけが残っていたのですが
1951年。再びその上に像ができました。
平和の群像

急に柔らかくなりましたね。

これ、ウォーキングの時に見て、思いました。

皇居の横で、若い女性が3人もなんちゅう格好してまんねん
平和っちゅうのは素晴らしい。

[首相]シリーズはこちら(少し下げてね)

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