府中高安寺は何度も何度も

今度、府中でウォーキングイベントすることにしたから、
昼食の予約できるところを探しに府中へ

高安寺
「府中の歴史」なる買ったら3500円もする分厚い本を図書館で借りて読んだ。
府中すごいわあ
ここまでとは
武蔵国という巨大な国の県庁所在地なんだから、そりゃそうなんだろうけど
歴史の舞台になるわなるわ

ゆかりの有名人として
平将門、源義家、源頼朝、新田義貞までは知っていたけど
南北朝・室町時代以降は分かっていなかった
それ以降も、府中で合戦合戦また合戦

隣の相模国の県庁所在地は鎌倉
鎌倉争奪の代理戦争は常に府中ということになる

足利、上杉(山内上杉と扇谷上杉)、北条のどろどろ戦国時代
はい、こっち、今度はこっち
その戦地になったのがことごとく高安寺

うかつだった
そんな超大物の場所、前回近くまで行ったのに見逃しておりました。


写真で伝わるかなあ。どでかい山門

そもそも、寺ができる前がすごい
この土地に住んでいたのが、平将門を倒したあの藤原秀郷

となると、歴史上の重要人物はここにこだわりたくなるのでしょう。

源義経は兄頼朝の怒りをかい、鎌倉入りを許されなかった
仕方なく京都に帰ろうというとき、一旦ここに立ち寄った
まだ見性寺といっていた時です。

ねえねえ弁慶。
反省してるって態度で示したいんだけどどうすれば良いと思う?

やっぱあれでしょ

だよね

クイズです。
何をしたでしょう。
このあとすぐ答を書くので、下を隠しながら考えてね

ヒント: カミさんにシュークリームを買って帰る、ではありません。
崇徳上皇もやった定番のあれです。























【答】
大般若経の写経

その時、硯に入れた水を汲んだのが、この弁慶硯の井戸

次にこの地に注目したのが新田義貞
1333 鎌倉幕府を倒す世紀の分倍河原大決戦で、本陣を置きます。
新田軍は勝利しますが、見性寺は焼け野原

次にこの地に注目したのが足利尊氏
鎌倉幕府を倒した本陣なのに荒廃したままにしておく訳には行かない

尊氏は全国の国に、それぞれ一つずつ安国寺というのを作らせますが
武蔵国の安国寺はこの地に作ります。
名前も高安寺とします。高氏という字を使っていた頃の「高」の一字を使って
高安護国禅寺の略で高安寺。
したがって高安寺の開基(スポンサー)は足利尊氏です。

一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院になった。

それが良かったのか悪かったのか
室町幕府は、京都に次ぐ、関東を治める役割で、鎌倉公方(くぼう)というのを置くが
高安寺は、その軍事基地とされてしまう。
寺なんだけど城的な感じ。

1360 初代鎌倉公方足利基氏、宇都宮氏の反乱で高安寺に出陣
1380 2代鎌倉公方足利氏満、小山義政の反乱で高安寺に出陣
1399 3代鎌倉公方足利満兼、高安寺に出陣

鎌倉公方を助ける補佐役として関東管領(かんとうかんれい)というのが置かれ
上杉氏が代々つとめるんですが、
4代鎌倉公方足利持氏の時、あろうことか、鎌倉公方と関東管領が対立するようになり
なんとなんと鎌倉公方が負けちゃう。
1439 永享の乱。場所は高安寺

1455 5代鎌倉公方足利成氏、2度目の分倍河原大決戦、享徳の乱と呼ばれる
もちろん、場所は高安寺
今度は、鎌倉公方側が勝つんですが、成氏は茨城県の方に拠点を移し
古河公方となる

ようやく、高安寺は解放されたかな?

武蔵国の主役は後北条氏に移る

伊勢宗瑞(早雲)から始まり、2代目氏綱が鎌倉時代の執権「北条」を名乗る
紛らわしい時は、後北条氏という言い方をする

府中も、後北条氏が制覇していった。

ウォーキングの続きは明日ね

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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