腸内細菌から学ぶ生き方

今まで、腸内細菌の話をしてきました。
自分が健康になるための方法論として話してきました。
そこまでで、完結しても悪くないとは思います。

でも私が、本を読んで一番衝撃を受けたのはそこではなかったのです。

自分一人で
人は自分一人では生きていけないとよく言います。
そこでイメージしているのは、人間。
親だったり、友達だったり、仕事仲間だったり。
全くそのとおりです。

でも、それ以前にもうひとつあった。
自分自身の中に、自分とは別の生命体が1000兆個も、うじゃうじゃと存在していた。
その腸内細菌のおかげで「生かされて」いた。

おれは誰の世話にもなっちゃいねぇ
なんて、そもそも全くあり得ないんだということ。

頭とこころとカラダ
頭とこころとカラダという話をしたことがあります。
頭で考えたこともカラダと違ってしまうことがある。
そんなとき、カラダは重要なメッセージを出してくれているのだから、よく耳を傾けましょう。
そんなイメージです。
そこで、カラダを便宜的に、別人格のように考えましたが、それもそのはず。
もともと、カラダはじぶんだけの人格ではなかった。

腸内細菌自体
一方、腸内細菌自体に目を転じてみたとき、ものすごいことが行われていた。

死骸が届くという話。
細菌が腸まで届けるのはごく一部。
でも、胃液で死滅したとしても、死骸がメッセージとして仲間に届き、仲間が繁栄する。
何というけなげな生き物なのか。

さらに、ウンコの構成要素
自分が生きたままウンコになって出ていく

共生って、宿主である人間が健康でないと、エサもあたえてもらえないから、持ちつ持たれつなんです。
そこまでは理解できる。

便通を良くするため、自分が出ていくとしたら、理屈に合わなくなってしまう。

あたかも1000兆個全体が意識をもち、その「なにものか」に揺り動かされているように思える

自分を動かしているのは自分だけではない

えらい哲学者が「我思う、故に我あり」と言ったけど、
我思う前に我はあったのだ。

いとおしいという感覚
男性がどうひっくり返ったって女性に及ばないのはどうしてだろう。
腹の中にいる我が子を10ヶ月もの間、いとおしいと思い続けた事がない。
でも、もうこれからは、1000兆もの我が子をいとおしいと思いつつ生きていく事ができる。
望むなら、食物繊維をどんどん取ろうではないか。
自分の健康のためではない。
我が子たちのために。
我が子たちを全体として揺り動かしている、「なにものか」のために

私達という生き方
誰かと比べて「自分」はどうだとか
「自分」はこんなに頑張っているだとか
なんで「自分」の事を分かってくれないんだとか

なんてつまらん人生を送っていたんだろう。

もうすでに、腹の中から温かかったのだ。
もうすでに、愛し合っており、愛にみちみちていたのだ。
わたしのことを考えてくれている1000兆個もの存在。
もうすでに、私たちとして生きている。

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