[ことば日本史]薩摩守

ことば日本史、平安時代から

薩摩守(さつまのかみ)
平清盛の弟で、薩摩の職にあった平忠度(ただのり)は、
富士川の戦、墨俣川(すのまたがわ)の戦、砺波山(となみやま)の戦などに
大将軍の一人として参戦。

当初は優勢だった平氏も、寿永二年(1183)6月の砺波山の戦では源義仲に敗れ、
七月には都落ちせざるをえなくなってしまった。

忠度は、いったん都を出たものの、引き返し、
和歌の師匠であった藤原俊成(しゅんぜい)の屋敷を訪れた。

忠度は、すでに平家の敗北を悟って、死の覚悟はしていたが、心残りがあったのだ。

「この戦乱もいずれは終わり、平和が訪れたならば、
勅撰和歌集が編まれるときも参りましょう。
この巻物のうちに、取るべきほどの歌がございましたら、
たとえ一つなりとも 勅撰集に取っていただきたく、 まいりました」

巻物には、日頃詠んだ歌から、これはと思うもの百首を集めて記してあった。
俊成は、それを開いて見て、涙ながらに約束する。

「このような形見をお預かりしたからには、けっして粗略にはいたしません。
それにしてもこうして訪ねていらしたことには、感涙がおさえられません」

「もはや、野山にさらそうとも、西の海に流されようとも、かまいはしません。
今はもう、憂き世に未練もありませんから。ではお暇を申し上げます」

翌年の二月七日、忠度は一の谷の合戦で討たれた。

文治三年(1187)、勅撰による「千載(せんざい)和歌集」が編まれ、
俊成は忠度の歌を「読み人知らず」 として採用した。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

(かつて都だった滋賀の地は荒れ、琵琶湖のさざなみがわびしく聞こえるが、山桜は昔のままに咲いている。)

一首しか入れなかったのは、優れた歌が他になかったわけではなくて、
勅勘(ちょっかん)の身であることをはばかってのことだと
「平家物語」には記されている

この故事にちなんで、特別なコネによって名誉ある場に列せられることを
「薩摩守」というようになり、
明治時代にいたっては「タダノリ」とゴロがあうので、
汽車に無賃乗車することをさしていうようになった。

もとは美談だったのに、あら残念

もっとも今では、このような故事など知っている人のほうが少なくなって、
通用しなくなったためだろう、
もうほとんど使われることはなくなった。

私も今回初めて知りました。

[日本語]シリーズはこちら(少し下げてね)

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