首相シリーズです
羽田孜(はたつとむ)

1992年、竹下派(「経世会」)の会長だった金丸元副総裁が「東京佐川急便事件」で議員辞職したことを契機に、羽田派を結成。
93年、「政治改革法案」をめぐって提出された宮沢喜一内閣の不信任決議案に賛成。
小沢一郎氏らとともに自民党を離れ、新たに新生党を結成し、党首となった。
同じく「新党ブーム」の波に乗った日本新党の細川護煕氏に協力し、非自民連立政権の細川政権の樹立に協力。副総理と外相を兼任した。
首相に
細川総理の突然の辞意表明は、かねてからの連立政権のきしみを一気に増大させてしまった。
小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長が与党内を取り仕切るという「一・一ライン」に対する反発から、新党さきがけが最初に連立から離脱。
それでも首相となって、内閣発足という直前
社会党を除外して新生党、日本新党、民社党が
衆議院統一会派である「改新(かいしん)」結成に動いたことから、
社会党も離脱した。
このため、羽田総理は衆議院で多数派をもたない、
少数与党内閣をつくらざるを得なかった。
新生党代表幹事だった小沢一郎氏に対する
「二重権力」「強権手法」といった批判も続く
羽田総理の仕事としては、1994年(平成6)6月25日、
遅れに遅れていた1994年度予算を成立させたこと
社会党に対して連立復帰を働きかけたがうまくいかず、
内閣不信任案の可決が必至となる。
衆議院解散という選択肢もあったが、それだと中選挙区制での選挙となり、
羽田総理は小選挙区制の施行を進める立場上問題だと考え、
予算成立と同じ6月25日に総辞職を表明した。
2番目に短い、短命内閣64日間だった

その後
その後も羽田氏は自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、
新進党の結党に参加。
96年には盟友だった小沢氏と袂を分かって新進党を離れ、
新たに太陽党を結成。
1998年1月には太陽党、国民の声、フロム・ファイブの3党で結成された
民政党の代表に就任した。
98年4月、新・民主党の結党に参加。
幹事長や特別代表を歴任し、「党の顔」として
トレードマークである半袖の「省エネルック」で全国を飛び回った。
