国分寺を歩く。その1
の続きです
その1のレポートの最後に続きは月曜日、と言っておりましたが
あれれ どうしたの?
そうなんです。
タブレットが壊れたので、せっかく撮った写真が、全部前の端末の中
どないしょう
思い出し思い出し、
もらったパンフレットからの画像のみで続きのレポートをいたしましょう
国分寺跡
万葉集の本も入手したばかりなので、万葉庭園へ行きたいな
とはいえ、国分寺に来て、名前の通りの「国分寺」跡に行かないっちゅうのもね
以前行ってはいるものの、ちょこっとだけ確認してくるか
と思ったのが嬉しい誤算
うわあ、こんなにすごかったっけ
以前来たときも、「国分寺」が歴史上どれだけ意味のある場所かは分かっていたつもりですが
正直、金堂跡くらいしか印象に残っていなかった
まずは、国分寺って何なのか、から話を始めましょう
時代は、奈良時代です
それだけでもすごいでしょ
聖武天皇の時、741年(天平13年)に「国分寺建立の詔」というのが出されました
1284年前ってどんなのか、感覚がわかないほど昔
聖武天皇って不思議な人で、前半はとんでもなくダメな奴
仕事をほっぽらかして、失踪しちゃった
帝(みかど)がいないーっ
各地をふらふら
そんな中でいろんな経験をしたのかも知れません
日本国中大変な時期
大飢饉
それに加えて、疱瘡(今でいう天然痘)が大流行
国の人口が3分の1になったという説もあるほどの惨状
奈良に戻ってきた聖武天皇は、仏教の力を借りて、各国を穏やかにしよう
各国に、国分寺というでっかいお寺を作りなさい
ここでいう各国というのは、こういう区分になっています

ということなので、68国に一つずつ、大きなお寺「国分寺」が作られるのです
作る費用は、各国持ちなんですけど
ここ関東では武蔵の国
武蔵は、今の埼玉県東京都全域と、神奈川県の川崎市横浜市が入ったどでかい国
その国分寺が、この国分寺になります
以前は金堂跡くらいを見ただけだったけど、
ひょっとしたら当時より、国分寺跡が整備されて、より広がったのかも知れない
ただただ広い。むやみやたらに広い
こ、こんなにでかかったの?
以前、大阪で難波宮跡を見て、その広さに圧倒された
さすが、都はすごいなと思った
こっちは、お寺に過ぎないけど、広さは、ほぼ匹敵する印象
普通、大きなお寺、って思い浮かぶどんなお寺より、でかい気がする
自分自身、難波宮跡を見てから、ここは当時の建物の柱の跡、みたいなのが残っているだけでも
感動の仕方が以前よりも違う
おおおっ、ここにっ、こんなーっ
写真がないので、もらったパンフレットの画像で紹介していきます
まずは全体
地図でいうと、こう

後で行く資料館にあるジオラマだと、こう

個別の建物へと参りましょう
講堂跡

経典の講義が行われた場所です
金堂跡
仏像が納められていた建物

須弥壇(しゅみだん)の上には仏像が置かれていた

中門

中門の横には、出ましたっ、大好きな築地塀

鐘楼
鐘を鳴らして時を告げた

中枢地域の位置関係

中門までの中枢地域より南が感動
おそらくここが前回来たときより後で整備され追加されたんじゃないかと思う
広いーっ

さらにもう少し広がって、こういうイメージになるらしい

この南北に長い場所って実はほんの一部で
横にさらに広い
七重の塔跡
ここ、以前行ってないんです
こちらまで足を伸ばすと、当時いかに広かったかを実感できる

すごいなと思ったのは、一度、ちょっと横に建て替えているから
七重の塔跡が2つもある
七重の塔の模型が資料館の横にありました

五重の塔でもすごいのに、奈良時代に七重の塔なんて
私は七重の塔はまだ見たことない
一旦区切ります
続きはまた明日