橋本龍太郎

昭和十二年(一九三七年)、東京生まれ。父の龍伍は大蔵官僚、のちに衆議院議員、厚相、文相を務める。
昭和三十七年、父の急死で急遽、翌年の衆院選に立候補し当選したのが二十六歳のとき。
初登院のとき継母が付き添い「マザコン代議士」と揶揄されたりしたが、
以降、若くして要職を歴任し、「政策通」「若きリーダー」と目されるようになる。
容姿や服装のセンスから、一般の人気は高い一方、切れ者過ぎて皮肉な対応が多く、
仲間が少ない、とも言われた。
不勉強な質問には嫌味で返す、記者泣かせの政治家でもあった。
首相に
自由民主党・社会党 (のち社会民主党に改称)・新党さきがけの3党連立を継続しつつ、
2年5か月ぶりに自民党が総理の座を取り戻したのが、橋本龍太郎内閣である。
最初の課題は住宅金融専門会社問題だった。
経営がゆきづまった住専に対して、公的資金6850億円の投入を1996年度予算に計上する。
1996年(平成8) 9月に衆議院を解散し、
細川内閣時に導入が決まった小選挙区比例代表並立制による総選挙が初めて実施されることになった。
公示直前には民主党が誕生している。
10月の投票の結果では、自民党が239議席と第1党の地位を確保。
野党の新進党や民主党は大きな伸びがなく、
社民党と新党さきがけは後退し、閣外協力に転じたため、
自民党単独による第2次橋本内閣が発足する。
橋本総理は行政、財政構造、社会保障構造、
経済構造、金融システムの5大改革(のちに教育を加え、6大改革)に取り組む。
行政改革では中央省庁をほぼ半減する再編案をまとめ、
2001年(平成13)1月に実施された。
いっぽう外交分野では、1996年2月のクリントン米大統領との会談をへて、
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の全面返還の合意を取りつける。
1998年(平成10)、ロシアのエリツィン大統領との会談では、
北方領土問題における国境線画定の新提案をするなど交渉は進展したものの、
頼みのエリツィンの退陣で実らなかった。
1997年(平成9)4月、消費税が5%に引き上げられる。
11月には北海道拓殖銀行の経営破綻、
山一證券の自主廃業など経済危機が発生。
1998年7月の参議院選挙では、橋本総理による「恒久減税」発言のぶれも影響して
自民党は44議席にとどまり、橋本総理は敗戦の責任を取って辞任する。