和算の関孝和、世界的数学者

江戸の理系力

いよいよ、日本を代表する世界的数学者、関孝和(せきたかかず)です。

吉田光吉が大ベストセラーの「塵劫記」を書き
日本中が、数学に親しんだ。
和算はここから始まった。吉田光由

名酒が生まれる前に麹がプツプツ音をたてているような
日本全体が数学のスーパースターを生むだけの
ポテンシャルの高まりを持っていたんだと思う。

日本舞踊や茶道や華道に流派がありますよね
あんな感じで、数学(=和算)にも流派が出来たというんだから
数学はもう、庶民に根付いた文化になっていたんです。

関孝和
せきたかかず 数学者 1640~1708

そんな中で、生まれるべくして生まれた
数学界のスーパーヒーロー

ニュートンやライプニッツと並んで
17世紀に活躍した大数学者と言われている

円周率を12桁まで正確に算出

筆算による代数の計算方法を発明
代数。x y zってやつですね
関孝和は、甲 乙 丙
さすが和算ですね
西洋より70年も早かったんですって

世界で初めて、行列式というものを開発

出ました、行列
高校の時、やりましたねえ
当時、落ちこぼれていたので、何が何やら、何の事やら

大人になってから
数学ってこんなに面白くて役立つ、みたいな本を読んで
行列というものが、いかにすごいものかというのを知った。
かといって解けるようになった訳じゃないけれど
あの時、行列ってすごく便利で役に立つものなんだというところまでは分かった

まさか、その行列を世界で初めて考えたのが関孝和だったとは

生い立ち
寛永17年(1640年)内山七兵衛永明(ながあき)の次男として生まれる。
永明は徳川忠長(2代将軍秀忠の三男)の家臣
いやあ、とんでもない人の家臣になっちゃいましたね

色々やらかして、兄弟の3代家光に死においやられた人。

永明も職を失い、浪人となって江戸に出る
孝和は、親戚の関家の養子になり甲府へ。

徳川綱重(つなしげ)とその子綱豊(つなとよ)に仕える

アンラッキーのあとの超ラッキー

綱豊とは、その後5代綱吉に子供が出来なかったために
甥っ子であった綱豊が養子に入り、6代将軍家宣(いえのぶ)となったその人です。

家宣はものすごく人間が出来た人で
極端なほどの学問好き

浪人で身分が何もない学者、新井白石を生涯師と仰いで重用した人

家宣が将軍になるにともない
関孝和も一緒に江戸に出て
幕臣となります。

幕臣として仕事をしながら、学問を極めていきます。
家宣だから許されたんだろうなと思います。

次々と先程説明した代数や行列などを発明していきます。

関流
関孝和の優れたところは、
自分自身が優れていたことに加え
弟子を育てることに優れていたこと

先程お話しした「流派」の関流というのを立ち上げ
流派の中では一番門人を集めることになる。

直接の弟子としては、建部賢弘(たけべかたひろ)、荒木村英(あらきむらひで)、松永良弼(まつながよしすけ)
その後も優秀な数学者を排出し、
数学は、関流を中心に動いていきます。

そのあたりの事を、次回、中根元圭(なかねげんけい)を中心にお話していきます

索引はこちら

和算の関孝和、世界的数学者」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 和算のターニングポイント。中根元圭 | でーこんのあちこちコラム

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です