華岡青洲の母と妻。そしておばあちゃん

江戸の理系力シリーズです。

華岡青洲
はなおかせいしゅう 医学者 1760~1835

前回、解体新書の話をしましたね

医学の基礎理論は飛躍的な進歩を遂げたわけだけど
実際の患者さんへの治療法としては大きな進歩が見られた訳じゃなかった。

そうです。
手術というのは全く未開の方法だったんです。

メスで切ろうとしたら
痛てててて、何すんねん
になりますものね。

大きく西洋医学にシフトしているこの時期
西洋の医学書のどこかに、麻酔の事が書いてなかったの?
と思うでしょうけど、実は書いていなかった。
理由はあとで言いますね

仕方がないので、自分で研究しようと考えたのが、華岡青洲

多少はありました。
曼陀羅華(まんだらげ)とか、トリカブトとか、痛みを和らげるもの
でも使い方を間違うと命に関わるから
使い方はごく限定的なものだった

色んなものを試して配合してその割合を変えて
動物実験を繰り返し
良いような悪いような

答えの出ていない状況が何年も何年も続く

奥さんが
それ
成功すれば多くの人が救われるのよね

まあ、そうなんだ
それは間違いないんだけど

飲んで見るわ

お前本気で言っているのか

やっぱり出来なくて

でも何度も促される
何度も何度も

そして決意する

すると、お母さんが

二人分ずつ作ってちょうだい。

全く効果が出ない
少しずつ配合を変えるんだけど
いっこうに期待した効果にならない

ある時期から、今度は強い副作用が出だす。
そんな繰り返し。

粘り強く粘り強く

10年が経過しさらに数年
悲劇が訪れる

お母さんの死

奥さんはだんだん視力が衰える

完成
お母さんが亡くなったあと、6年
最初からすると20年が経過し
ようやく完成した
通仙散(つうせんさん)と名付ける。

奥さんは、失明してしまっていた。

でもそこからがまた大変。

その麻酔をして手術を受けようという人が現れない。

数ヵ月が経過し
60歳の乳癌を患った女性(藍屋勘さん)が申し出てきた。

万一、命を落としたとしても悔いはしません
恐れもしません
何卒手術をしてください。

手術
文化元年(1804年)10月13日
通仙散を飲み
乳房を切開、患部をメスで切除、再び縫い合わせて
見事手術成功

これにより、日本に外科医学の夜明けが訪れます。

以降、華岡青洲は、乳癌意外の癌、など
色んな手術をしてどんどん成功をおさめていく。

実は、1804年10月13日というこの日にち
日本に外科医学の夜明け、のみならず
世界の夜明けでもあったんです。

西洋で全身麻酔手術成功は1846年、ウィリアム・モートンさん
実に31年も後のこと

他にも本当はやっていたかも知れない的記述が、
東洋を中心にいくつかあるにはあるんですが
ちゃんと記録に残っているのは華岡青洲が、世界初ということになります。

西洋って当時、医学は日本に比べるとかなり進んではいたんですが
不思議なくらい、麻酔に関してだけは進んでいなかった。
手術は行われていたんですが
患者を大人数で押さえつけるという、根性論

西洋人たちが、「根性ーっ」とか叫びながら手術していたと思うと
壮絶なものがありますね。

さらに言うと、日本のように手術の時手を綺麗に洗うとか
患部やメスとかを焼酎で消毒するなんてこともなかったので
手術後の成功率はかなり低かったようです。

その後、「春林軒」という私塾を開設
どんどん弟子が増え、最終的に1887人。

ただ、通仙散の調合に関しては、秘伝にしちゃったので
弟子の中で口伝えにしか伝わっていません。
紙に書けば、より多くの人が救えるし
世界にだって教えてあげられる。
弟子にも敢えて、それを禁じたんです。

副作用が大きすぎるので
麻酔薬だけが独り歩きすれば
医療事故が多発するだろう
それを恐れたんです。

母や妻の事がずっと頭の中にあったんでしょうね

でもやっぱり広めないと、という使命感と、心の葛藤が
1887人という膨大な弟子の数になったのかも知れません。

奥さん
失明してしまった奥さんですが
青洲は一生仲良く、大切にして
いつも一緒で、手となり足となったそうです。

索引はこちら
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