蛤御門の変。丸焼け京都市民の反応は

昨日、磯田道史先生のTBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」出演時の話を書きました。
磯田道史先生。日本の歯医者誕生のびっくり経緯。西郷どんのあの人の孫は
今日はその続きです。

今日の話もまた、磯田先生が自分で見つけた古文書で分かった事柄

蛤御門の変
元治元(1868)年、蛤御門の変が起きます。
明治維新の4年前。

長州が、前年の8月18日の政変で劣勢にたったのを挽回しようとした、言わばクーデター。
その時は、まだ薩長連合がなっていないので、
幕府側の立場で薩摩藩が大活躍。
長州を薩摩がコテンパンにやっつけるということになります。

蛤御門の変、自体は一日でかたがつくのですが
この時起きた大火災。
通称どんどん焼きと言うのですが
京都の町の6割を丸焼きにしてしまいます。

[磯田先生]
明治維新って、龍馬だ、西郷だって、志士たちばかりが注目されちゃいますよね
市民側から見た幕末・明治維新ってどうだったんだろうと、興味がありましてね。

特に興味があったのが、蛤御門の変
市民に大被害が及ぶ訳で
そこでどう感じていたんだろうと。

当時、7~8歳だった少年たちが
日露戦争のちょっと前くらいになったら中年くらいになっていて
新聞とかも発達してきているから、昔の事を思い出して色々語っている文章がいくつか見つかる

それを見ると

200年以上平和が続くと、戦争ってものは、もう歴史上の出来事で
感覚として分からない。

そうなると、面白そうだってことで見物に行く。
例えば、長州藩士の後を子供が追いかけて回るようなことも起きる。

本人たちも、戦争の仕方が分からないから
例えば、道を進むとき、
本来なら、横一列になって制圧しつつ進むんだけど
ちゃんと交通ルールを守りつつ、
片側を開けて、横を通りやすくしながら、行列して進んだりする。

長州藩と会津藩が向き合ったりしても、
戦争の始め方が分からないから
何をしていいもんかと
じっと静かに相手の事を見ているだけだったりする。

見物で取り囲んでいる市民たちもどうなるんだろうね、と話しながら見ている
急に、発砲した方が良いのかなと思った誰かが発砲して
その音にびっくりして市民たちは逃げるというような
そんな光景があちこちで起きる。

そんな中で唯一違っていたのが薩摩藩

私はフリーズパックと呼んでいるんですが
戦国時代の感覚がそのまま、フリーズされて幕末まで引き継がれているんです。

チェストー
とか言いながら、突進する

チェストと言うのは、知恵捨てよ、の意味で
恐怖感とか、家族の事とか、頭で考える事を一切がっさい捨て去って、という事。

見ている一般市民の観衆は
ああ、薩摩の世の中が来るぞと。

すごいのが西郷隆盛
勝敗がほぼ見えてくると
スパイを長州側に潜入させて、食料等、戦争の準備をしていた物資を隠していた場所を片っ端からつきとめ
奪っていく。

どうするかというと、それを市民に配り
市民を味方につける。

一方、慶喜の幕府や、会津藩、桑名藩はどうしたかというと
長州藩がゲリラ化し、各市民の住宅の中に入り込んで抵抗するのではないかと
市内の住宅に火をつけて回る。

すなわち、戦火が広がったんではなく、わざわざ焼いたんです。

そうなると、市民の住宅ばかりじゃなく、町ごと焼けちゃうから
お公家さんの家だって燃えちゃう。
お公家さんたちも、幕府に何をしてくれたんだと。

結果として、
勝った側の中でも、評価をグッと上げた薩摩藩と、
評価を下げちゃった、幕府、会津藩、桑名藩に分かれちゃいます。

長州藩士たちの死体を片付けるに当たって
市民たちにやらせるんですが
そんな仕事やりたくないですよね。
一つの特典を与えるんです。

死体の持ち物は自由にしていい。
例えば、財布を持っていたら
片付けた人のものにする

市民の中では、何人かの死体片付けで儲けて
それを元手に商売を始めて、一財産築いた者まで現れた。

激動の時期をしたたかに渡り歩いた市民だっていたんです。

では、最後の皇后陛下の話は明日ね

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