[天皇]17-18 履中、反正。倭の五王とは

履中(りちゅう)天皇
大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)~432年?

仁徳天皇の長男
羽田八代宿禰の娘、黒姫さんを奥さんにしようと思います。
ところが、弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が

私が、婚約者の大兄去来穂別尊ですよ、と偽り
黒姫を犯してしまう。

さらに
どう考えてもすぐにばれるぞと
先回りして、お兄さんを殺そうとします。

お兄さんもその事に気付き、さらに弟の瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)と一致協力
住吉仲皇子を返り討ちにして殺してしまいます。

反正(はんぜい)天皇
瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)~437年?

履中天皇の弟
履中天皇は、住吉仲皇子事件で協力してくれたので
借りがあります。
自分には子供がいましたが、瑞歯別皇子を皇太子に指名します。
自分が死んだら次は弟に頼むよ

その通り、履中天皇が亡くなった後、反正天皇となります。

ものすごい歯並びが良く
前から見るとこりゃ一枚の白い板でしょ、というくらい。
だから、瑞歯別皇子という名前

倭の五王
日本にはまだ文字がない時代なので
この時期の最中に書かれた書物がない

中国には文字があったので、その書物から推測するしかない。

宋書
北から騎馬民族が南下して国を打ち立てた。
宋です。
ここに、日本の王が挨拶に行った。

讚(さん)という王。
西暦で言うと、421年。

遠いところ悪いねえ。
と、爵号を贈られている。

その後とんとんと、数年おきに使者を送っている。

というようなことが「宗書」に書いてある。

それによると
421年から50年ほどの間に、5人の倭の王が宋に挨拶に行っています。
けっこう頻繁に王が変わったんですね。

倭の五王と言ったりします。

挨拶に行ったら、
大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)です
なんて言ったら
は?
って言われるだけ

自分の中国名を決めてから行きます。
ハンドルネームの「でーこん」みたいな感じかな。
漢字で一文字にします。

讃・珍・済・興・武
の5人です。

200年以上経って、日本でも文字が書けるようになって
古事記や日本書紀が出来る
履中天皇や反正天皇、また、和名の大兄去来穂別尊や瑞歯別皇子は
古事記や日本書紀に書いてある表現です。
それぞれの天皇がどれくらいの期間天皇としていたかは書いてあるんだけど
そもそも、各天皇は100年以上生きたことになっているので
元々疑わしい。

宋書の五王が古事記や日本書紀のどの天皇に当たるかがとても重要

明らかにこの名前でしょという中国名をつけてくれてりゃ良かったのに
それは、最後の「武」王だけ
雄略(ゆうりゃく)天皇です。
雄略天皇の和名は、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)
前後は尊称だったりして、結局名前そのものは「武」だけ
疑う余地なし。

一番最後が決まったので、どう遡っていくか。

この辺りの天皇はこの通り

済・興・武の後ろの三人は、お互いの続き柄の関係を書いてくれているので
済=允恭(いんぎょう)興=安康(あんこう)武=雄略(ゆうりゃく)で
まあ良いんじゃないかと。

問題は、前の二人。
讃と珍

後ろの三人との関係を書いてくれていない。

さらに、中国内部でも、宋書と若干違う書き方をしている文書もあったりと
混沌としている。

宋書には讃と珍が兄弟とあるので
一番有力な説は、讃=履中、珍=反正

ただ、讃は仁徳天皇だとか、応神天皇だとか
はたまた、古事記や日本書紀には現れない、他の氏族だとか。
説が分かれるのは面白いです。
それによってけっこう色んな解釈が伴って変わってくる。

謎が謎を呼ぶんですね。

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