[明治]木戸孝允。幾松の度胸。

明治シリーズです。

木戸孝允(きどたかよし)
1833~1877年 長州出身

維新三傑の一人です。
あとの二人は、大久保利通と西郷隆盛
桂小五郎を改名。両方変えちゃったら分かりにくいね。

高杉晋作が維新後も生きていたら、ふたりふたりで四傑になったんでしょうけどね

藩医和田昌景の長男として生まれます。
七歳のときに知行150石、大組士の家格だった桂孝古の末期養子となり、桂小五郎を名乗ります。

幕末の大活躍は長くなりますのでごそっと割愛
維新後に焦点をあてていきましょう。

五ヶ条の御誓文
五ヶ条の御誓文は、由利公正の原案、福岡孝悌の改定案にさらに木戸が手を加えて確定した
第一条は「列侯会議を興し」で始まっていた
それはそれで画期的で、有力藩の代表が会議して方針を決めていこうと。
でも、木戸はさらに先を見たんですね
今までの枠にとらわれていちゃだめだ
どういう形にするか自体、みんなで考えるべきだから、むしろ表現は抽象的な方が良い。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と改めた。
第四条「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」は木戸の意思で追加。

結局、廃藩置県に進んでいく訳ですね

確執
まあ、個性派揃いですからね
なかなか意見が合わない
大久保利通や西郷隆盛は意外に無口な方なんだけど
木戸孝允はよう喋る

財政や組織や人事の問題は、一番もめます。
自分やそのグループの利害も絡みますし
総論賛成各論反対みたいなのも。

木戸孝允と大久保利通の間に入ってくれていた、広沢真臣が暗殺されると大ピンチ
そういうときは、あの人の登場です
西郷隆盛

健康面が良くなかったので引退して国に戻っていた

やっぱりあんたがおらんとうまく進まん、と
中央に無理矢理連れ戻す。

なんとかうまくいくようになったんですが
岩倉具視使節団
木戸孝允と大久保利通は外国回り組
西郷隆盛は留守番組

西郷どん頼みにはできません

対立はするものの、欧米で同じものを見て同じ思いは共有する

でも今度は、木戸の方が病気がちになってしまった。

日本に帰ると台湾出兵に反対して下野
でも、やっぱり戻ってきてほしいと説得される。

西郷隆盛みたいですね

戻る条件として、立憲政体樹立と三権分立
お陰で大きく一歩進みます。

農民の味方でもあった
農民の窮状をさらに悪くするような政策にはただ一人になっても反対

明治10(1877)年、西南戦争の起きた年でした。
病状が悪化します
西郷大抵にせんかい
と言い、大久保利通と西郷隆盛の仲裁に入ろうとしますが
病気には勝てませんでした。
45歳にして、この世を去ります。

明治10年、11年に違う形ですが
維新三傑が全て亡くなってしまうのです。

幾松
時代は前後しますが、木戸孝允と言えば幾松

京都の三本木という花街で舞妓をしていた幾松は、19歳のころ木戸孝允と出会います。
その時木戸は29歳でした。
幾松はその時すでに商人に身請けされる約束をしていましたが、木戸がそれを阻止します。
最終的には、伊藤博文が刀を抜いて脅したという話もあります。

木戸孝允が追われる身になって乞食の振りをして川の橋の下にいたときも献身的に世話をしました。

新撰組が木戸を切るために来たとき

この長持ちに隠れなはれ

新撰組が部屋の中を探し回ります。

その間、幾松は顔色ひとつ変えずに長持ちの前で三味線を弾いていた

近藤勇が、長持ちの蓋に手をかける

待ちなはれ
これほど屋敷内を改めて私に恥をかかせた上、
もしも、この長持の中にどなたもいないとなれば、近藤はん、
責任とって、この場で切腹してくれはりますか?
その覚悟がおありどしたら、どうぞあらためておくれやす。

すまなかった。

この幾松の度胸に、さすがの近藤勇は引き下がった。

明治になって二人は正式結婚
身分差を乗り越えての正式な結婚はこの時がはじめてだとも言われています。

結婚後すぐ城崎へ旅行

坂本龍馬のお龍さんとの新婚旅行は日本初の新婚旅行とも言われていますが
こっちの方がちょっとだけ早いんですよね

[明治]シリーズはこちら(少し下げてね)

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