牧野富太郎先生の生涯

牧野富太郎先生万歳!牧野記念庭園記念館
の続きです。

牧野富太郎先生の生涯
高知県、佐川市の出身
造り酒屋に生まれ、家は裕福だったんで、何不自由なく育つんです。

両親が幼いときに亡くなったってありますね。

でも、それで家が傾いた訳でもなく、兄弟のいない一人っ子だったもので
おばあちゃんに大事に育てられるんです。
小学校を中退したっていうのは有名な話なんですが
貧乏して行けなくなったという訳ではなく
富太郎からすると、小学校で教わるようなことは
とっくに本を読んで知っていることばかりなので
自然と行かなくなったという事のようです。
ありがちな、苦学をして、というタイプではありません。

明治7年と言えば、小学校が始まったばかりですしね
寺子屋の延長の読み書きそろばんでしょうね。

佐川では飽きたらなくなって、高知市に出て、中学校の教員の永沼さんという人と出会う。
この人が素晴らしい人で科学としての植物学という発想を持っていた。

なるほど、そこで植物なんですね。

ひとりっこで兄弟がいない。田舎でおばあちゃんに育てられる。
体が丈夫な方ではない。
となると自然に野山に行って植物を話し相手という、自然な流れはあったんでしょう
で、一度上京します。
第二回内国勧業博覧会を見て、やっぱり都会はすごいなと。

はい、そこ得意です。上野ですね
そこでそこにあった顕微鏡を買うわけですね

(先日、イベントで上野公園で内国勧業博覧会の話はしたばかり
こういうところで繋がってくるととても嬉しいです)

再度上京し、植物学者牧野富太郎がスタートするんです。
こちらは牧野が小岩で発見した、世界的にも珍しいムジナモという食虫植物です。

これ、牧野先生が書かれたんですか?
すごいですよね

はい、こうやって各部分を分解して科学的に判明し分類していくという科学ですね。

それまでは、薬としての本草学は進んでいたけど、植物としての科学的な分類ではなかったですもんね

そしていよいよ、牧野が発見して命名した新種ヤマトグサです。


それ以降、実に1500種類も命名しています。

ヤマトを付けたわけですね

植物に名前をつけるって、日本人にはとても考えられないことでしたから。

シーボルトとかですよね
牧野先生以前は圧倒的にシーボルトでしょうけど
シーボルトには会っているんでしょうかね

時代的には被っているんですが、会っていないと思います。
シーボルトの悪口とか言っているんですけどね。

ええっ。そうなんですか。面白いなあ。

奥さんの名前をアジサイにつけたんですよね

はい、オタクサですね

あんなの信じられない。バカじゃないのって
でも、実は自分も奥さんの名前を、笹につけてるんですよ。
スエコザサってね
愛してたんですね

これ良いですよね。
牧野先生と歩く植物採取会

とてもユニークで人気あったようですよ。
学問的に優れていたのは、当然として
牧野さんは、一般の庶民に植物学を広めていったというのがすごいなと思います。

いやあ、これ絶対出たかったなあ。

(ウォーキングイベントやっている者としては、ここで一気に牧野先生を大好きになりました)

ただ、経済的にはすごく貧乏した様です。

高知の酒屋もそのために傾いちゃったって書いてありましたね

とは言え、結局はそちらは継がずにいとこさんかが継ぐので
そちらとも縁が切れちゃうんです。
東京大学には席をおいていますが、教授とかじゃなかった筈です。
小学校中退で学歴はゼロですから、そういうところが影響したんだと思います。

じゃあ、お給料としては大したことなかったんですね。
本とかが収入源ですか

はい
植物学者、素晴らしい方がいっぱいおられますが、知名度として牧野が圧倒しているのは
「牧野植物図鑑」の存在です。
牧野って名前つけちゃってますから。
これが当時のものです

それから、どんどん改訂が重ねられて、今も続いていて、これが最新のものです
(写真撮り忘れましたのでネットから)

今年ちょうど、牧野植物図鑑の80周年でイベントやりますので、その時はぜひ

はい、ぜひ

ただ、収入より圧倒的に支出が多かった。
全国を巡っていますし



先ほどの、関根雲停の絵を収集したり。
大前静さんに絵を複写させたのなんかは、おそらく出版予定があったわけじゃないでしょうから
完全に趣味としてポケットマネーから出していますね

いくら金があっても足りないですね

関東大震災に会いましてね。
その時、渋谷に住んでいたんですが、寿衛子(すえこ)さんが
危ないので、田舎に引っ越しましょうって。
当時、練馬はど田舎です。
90歳です。

嬉しいなあ。
最後にここに来ていただいたんですね

そのあとすぐに寿衛子さんは亡くなってしまうんですけどね。
膨大な本の量で、床が抜け落ちそうになったそうです。

寿衛子さんはどの方ですか

残念ながら、写っていません。寿衛子さんは亡くなった後だと思います。

ありがとうございます。大変面白かったです。
以前、練馬区民でしたので誇りに思います。

最後にもう一度庭園を見ました。

あっ、あった!スエコザサ

寿衛子さんが亡くなったあとに贈った2句です。

家守りし 妻の恵みや わが学び
世の中の あらむかぎりや すゑ子笹

寿衛子さんは借金苦の生活に耐え、自分のやりたいこともやらずに
ただ牧野博士の研究を支えることだけを生き甲斐としていました。
と案内にありました。

やっぱり「スエコザサ」の命名は良かったですね

[お出掛け]シリーズはこちら(少し下げてね)

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