[首相]20-2 なぜ2.26事件が起きたのか
の続きです。
対応
事件が起きた2月26日、午前9時、川島陸軍大臣が天皇に拝謁
事情を説明した。
天皇は、速やかなる鎮圧を指示
川島陸相が決起部隊の「決起趣意書」を読み上げようとすると
なぜそのようなものを読み上げるのかと一喝した
天皇は最初から「賊軍」という表現を使っており
彼らに敵意を持っていたと思われる
皇道派は「天皇が絶対」という考え方だから
もうこの時点で、失敗が確定したと言える
陸軍では対応が大混乱
まず、午前8:30、彼らが憧れていた真崎甚三郎が首謀者磯部に会っている
その時
とうとうやったか。お前たちの気持ちはよく分かる
と言ったというのと
馬鹿者!お前たちは何ということをやってくれたのか
と言ったというのと
全く逆の話が伝わっていて真相は分からない。
午後9時、陸軍大臣布告が渡される
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ
全く意味不明の文章なのだけれど
君達の真意は分かったよ。天皇にも報告してあって理解してもらっているよ
というふうにも読める
決起部隊は沸き立った。
翌27日午前2:50分
東京市に戒厳令の一部が適用される緊急勅命が公布され
東京は行政戒厳下に置かれる
27日、午前8時、原隊復帰命令が奉勅命令として出される
27日、鎮圧の先頭に立った石原莞爾は
大赦を陛下にお願いし、その条件で降伏撤退する
という収拾案を決起部隊に提案
決起部隊は撤退を拒否
27日午後4時ころに、
決起部隊の代表者12名と、真崎大将ら3参議官が会談
真崎大将に命令があれば撤退する
真崎大将に一任する
との同意を得る
但し、決起部隊からの要求は
真崎大将が首相になり
真崎内閣の元で維新を遂行する、ということを
参議官と決起部隊の総意として天皇に上奏するという前提
真崎は、天皇が強硬姿勢であることを知っているので
そのような上奏が出来ようはずもなかった。
同時並行で武力鎮圧の準備が進められる
28日、午前5時、再び原隊復帰命令が奉勅命令として出される
この間ずっと天皇は、気持ちが分かる的態度を一切見せず
強行に鎮圧せよとの態度を持ち続ける
川島陸相に対して
陸軍が躊躇するなら、朕自らが近衛師団を率い、反乱部隊を鎮圧する
とまで言っている。
28日、海軍の軍艦40隻が東京湾に到着。東京市内に砲門を向けた
芝浦から兵隊が上陸。臨戦態勢を整える
それでも陸軍皇道派幹部たちは、穏便な解決をはかるための水面下の工作を続けていた。
28日午前7:30
戒厳司令内部で今後の方針の会議が行われ
とうとう武力鎮圧に一本化
皇道派は諦め、奉勅命令が出ていることを決起部隊に知らせた。
そうです。今まで奉勅命令が出ていることを知らせていなかったんです。
奉勅命令とは天皇の命令ということなので
皇道派がそれに逆らう訳がないんです。
伝えられた決起部隊では、
首謀者たちが自決して、その他の者たちは原隊復帰するという事を決める
その上で、首謀者たちは、自分達が自決する場に
天皇から勅使を送ってもらえるように提案した
その提案は本庄侍従武官長へ伝えられ
侍従武官長は天皇へその旨が伝えられる
勅使など論外である
天皇は激怒した
28日、午後4:00
戒厳司令部は、武力鎮圧を表明
28日、午後11:00
攻撃準備命令が出される
同時に戒作命十四号が出され
決起部隊は公式に反乱部隊となった
29日、午前8時頃、下士官兵に告ぐというビラが飛行機から撒かれる
同時にNHKのラジオで原隊復帰を勧める放送が流される
さらに、「勅命下る。軍旗に手向かうな」のアドバルーンが上がる
作戦開始は午前9時と決められ
戦闘地域になるであろう赤坂と麹町の住民は避難を開始
時間がない
決起部隊は次々と解散
原隊へ復帰していった
最後まで残っていたのは、徹底抗戦を主張していた安藤大尉の部隊だったが
午後1時頃ついに諦め、原隊復帰とする
安藤大尉は拳銃自殺を図るも一命はとりとめた
午後2寺過ぎ、安藤大尉以外は全員、出頭すべく陸相官邸に集まった。
この時、野中大尉が自決した。
公判
軍法会議が行われ、19人に死刑が言い渡され、僅か7日後に死刑が執行されている
以下が決起部隊の軍人たち
さらに、彼らが思想的拠り所としていた「日本改造法案大綱」の著者、北一輝と
北と青年将校たちを結びつけた西田税が、民間人でありながら死刑になっている