[ことば日本史]錦の御旗。負けちゃったのに

ことば日本史シリーズ
今回から鎌倉時代に入ってまいります

平清盛を倒した源頼朝は鎌倉に幕府を開く

だが後鳥羽上皇は、政権を奪い返すチャンスをうかがっていた。

承久元年(一二一九) 一月、三代将軍、源実朝が暗殺される。
公家文化に親しみ、武家と公家とのパイプ役となっていた実朝の死は、両者の溝を深める。

源氏の将軍が絶えたことによる動揺は、後鳥羽上皇にとって、待っていたチャンスと見えた。

決戦のときがきた。

錦の御旗(にしきのみはた)
承久3(1221)年5月14日、
後鳥羽上皇は、流鏑馬ぞろえと称して、鳥羽城南寺に畿内近国の兵千七百余を集めた

翌日、義時を追討し、全国の守護地頭を院庁の統制下に置くという院宣を発する。

この召集に応じなかった京都守護、伊賀光季を襲わせて挙兵の血祭にあげた。

鎌倉では、北条政子が御家人の結束を訴え、
北条泰時時房を大将軍とする東海道軍十万余騎に東山道、北陸道、
あわせて十九万という大軍勢以東十五カ国の武士で編制し、直ちに西上させた。

これに対して上皇軍は、総数二万数千と称したが、
それさえ、寄せ集め
集団統率された軍団とはいえなかった。

「承久記」によれば、このとき後鳥羽上皇は、
十人の大将に「錦御旗」を賜って官軍の標とした

これが、史実として確認できるものでは最古の「錦」だという。

だが、後鳥羽上皇は、公家勢力全体の合意をとりつけていなかったし、
上皇軍は実戦にはまるで対応できていなかったので開戦から1ヶ月にして敗退した。

このときは錦の御旗を掲げた側が負けてしまったわけだから、
まだ今日いうような慣用句として「錦の御旗」ということはなかった。

「錦の御旗」
勝てば官軍
ではなく
「負けちゃったけど官軍」だった訳です

錦の御旗を掲げることが正統性の証明となったことは、
南北朝時代にはうかがわれるそうだが、
庶民にとっても馴染みのあるものになったのは、やはり明治維新
出たっ

鳥羽伏見の戦いでは
勝てそうだった幕府軍
徳川慶喜は新政府側に掲げられた「錦の御旗」を見るや
逃げて江戸まで帰っちゃった

戦わずして、勝負あり
絶大なる「錦の御旗」の効果

品川弥二郎の「トコトンヤレ節」を歌いながら
新政府はゆっくり江戸に向かう

宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよ との錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

組織のトップや公権力からの認定、 正義や平和などの理念を、
正統性の証明として利用して行動することに
「錦の御旗」という言葉を使うようになったのは、それ以降のことだろう。

[言葉]シリーズはこちら(少し下げてね)

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